毒親連鎖を断ち切りたい

子供の頃から長い間押さえこみ続けた負の感情の蓄積は人生に大きなブレーキをかけてしまいます。ここで真剣に毒親問題に取り組み、負の連鎖を完全に断ち切りたい。このブログで「脱毒親への道」を記録してゆきます。

Episode35〜伝説の映画監督「伊藤智生」、AV界の巨匠「TOHJIRO」監督を知っていますか?

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ハルです。

 

今回も自作解説から始めます。

👆これは今まで掲載していた作品とは、ガラリと趣向の違う作品です。題名は『誰にも縛られないために私は私を自分で縛る』。A3ぐらいのケント紙にペンで描いた作品です。

 

一年ほど前に描いた作品ですが、今見ると、これを書いた自分は「病んでるな」と思います。正確に言うと「病みながら、そういう自分を客観視しようとしている」という作品です。

 

この作品を描いた頃、ある映画監督の方と知り合いました。その方の名は伊藤智生

ものひとつの作家名はTOHJIROです。

男の方なら「あの人か」と思いあたるかもしれません。僕の駄文で説明するより、下のリンク先を見ていただいた方が早いと思います。

【AVの巨匠TOHJIRO(伊藤智生) 伝説の長編処女作 『ゴンドラ』 30年ぶりの再上映】

https://www.google.co.jp/amp/cinefil.tokyo/_amp/_ct/17024382

 

この『ゴンドラ』という映画をポレポレ東中野という小さな映画館で観て、とても感動して、長文レビューをFacebookに載せたところ、伊藤監督の目にとまり、監督自身そのレビューをとても喜んでくれて、それからお付き合いが始まりました。

 

お会いしてみると、とても純粋で歳をまったく感じさせない程若々しく、初々しく、誠実で紳士的な作家でした。

作品の『ゴンドラ』は不思議な静謐さとホリックな空気感に満ちた作品ですが、AV監督TOHJIRO監督として制作するAV作品は、いわゆるハードSMというジャンルの、超マニアックな作品。

 

僕は伊藤智生監督に出会う前から、TOHJIRO監督のAV作品を知っていました。その趣味があるなしに関わらず、とにかく強烈な内容なので、一度観たら忘れられないAV作品です。

 

劇場映画作品とAV作品のギャップがあまりに大きいので「同一人物か」と一瞬疑ってしまうんですが、ご本人の中では、深い部分で映画とAVは繋がっています。 

 

それが僕にはよく分かる。

 

ーーここも説明が難しいところです。

 

TOHJIRO監督のAV作品のリンクをここに貼るわけにはいかないので、言葉で説明するしかないんですが(言葉で説明するのも少々はばかれるけど)、要するに美しい女優さんを縛ったり、吊るしたり、鞭で叩いたり、◯◯したり、□□させたり、…という、女性の人格を踏みにじってるかと思うくらい、フェミニストが観たら卒倒するような物凄いSM作品を撮っているのです。

 

ところが、この業界のトップ女優がこぞってTOHJIRO監督の元に「撮って欲しい」と列をなし、リスペクトして、絶大に信頼されている。

 

TOHJIRO監督がいつか言っていましたが、「俺は医者じゃないのに、どういうわけか、病みを抱えた女優ばかり俺のところにやってくる」との事。

 

女優を痛めつけるのがウリのSM作品は数々ありますが、TOHJIRO監督のAV作品を観ると、激しい責めを受けた女優さんが、終わりの方では、憑き物が落ちたような独特の表情に変わっています。そのうえ、何とも言えない、素朴で清らかな「美しさ」さえ感じる。その表情は「演技」ではないように見えるのです。

 

伊藤智生(TOHJIRO)監督のお母様は、監督がまだ子どもの頃心を病んで、その様子を、監督はつぶさに記憶しているそうです。(そのお母様をモデルにした映画を次回作で制作するそうです)。

 

心のどこかに病みを抱えた若い女性がTOHJIRO監督の元を訪れ、自ら望んで激しい責め苦を受け、絶叫し、何かを吐き出し、生まれ変わったような表情に変わる。

 

そういう人間の不可思議さを、言葉で説明するのはとても難しい。

 

言葉での説明は難しいのだけれど、僕は、これは単純な、人間としてごく当たり前な事だと思うんです。

 

表面だけを見てると分かりません。でも人間の心の側から見ると、すぐに分かることです。

 

厳しい修行を積むお坊さんは、何故好きこのんで、みずから苦しい目に会おうとするのか。

 

その修行を経た後は「生まれ変わった」心境にたどり着く。生まれ変わりたいから激しい責め苦を自分に課すんです。苦しみを経ないと人間は成長しない。それが人間の変わらない原理です。

 

⭐️

 

ここで思い浮かべるのは、僕の子どもの頃の記憶です。

何度も書きましたが、僕は父に理不尽な暴力を振るわれ、泣いていた僕に、母は「お前の方が大人になって乗り越えろ」と言いました。

 

父も母もこの出来事を「息子を成長させる為に必要な試練を与えた」と思っています。そうだと、僕にはっきり言いもしました。

ある年齢になるまで、僕は、この親の理屈をそのまま飲み込んで、受け入れていました。

 

でも今では、これが「親の汚い嘘」だと、はっきり分かります。

 

「自分が望みもしないのに一方的に押し付けられる苦しみ」自分が望んで受け入れる苦しみ」は、まったく違うのです。

 

「苦しみ」を「快楽」に置き換えてもいい。

 

「自分が望みもしないのに一方的に押し付けられる快楽」「自分が望んで受け入れる快楽」は、まったく違う。

 

子供が望みもしないのに、親側の一方的な理屈で、子供に「苦しみ」や「快楽」を与える親は毒親に他なりません。

 

「うちは子供に何不自由なく与えている」と、子供の本当の望みを無視して、玩具やお菓子やお金を与えている親は、子供に暴力を振るう親と同じです。知らず知らず子供の心を壊しています。

 

⭐️⭐️

 

セックスは快楽に違いないけれど、望まない女性にセックスを強要するのはレイプです。

 

望むセックスをすると人間の心は満たされますが、望まないセックスを強制されると人間の心は壊れるのです。

 

望まないものを親の一方的な都合で与え続けられた子供の心は、徐々に壊されてゆきます。

 

「試練を与えてやらねばならない」と勝手に考えて子供に試練を与える親は、「セックスは快楽なんだからセックスしてやるよ」と女性をレイプする勝手な男と変わらないんです。

 

レイプされた女性の心が深く傷ついているように、親の一方的な試練を与え続けられた子供の心は深く傷ついています。

 

⭐️⭐️⭐️

 

大人になれば、「自分の成長に必要な試練」は、自分から望んで受けるようになるんです。

 

TOHJIRO監督の元に飛び込んで、激しい責め苦を受ける女優は、それまでに「自分が望まない責め苦」ばかり受けて心が病んでいるんです。

 

「自ら望んで受ける責め苦」は自分を成長させる。それは誰からも教えられなくても、人間はしかるべき時に、自分に必要な責め苦を自分に課して、勝手に成長してゆくんです。

 

TOHJIRO監督の激しい撮影の後、女優たちが独特の晴れやかな表情をしているのは、性倒錯でも何でもなく、人間の原理にかなった、人間らしい行動をしたからです。

 

親が自分勝手な理屈で、子供に試練や責め苦を与えちゃいけないんです。絶対に。

 

それは女性をレイプするのと同じくらいに罪深い事をしているんです。

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それでは、また。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 

Episode35~END~

To be continued

 


【追記】

4月13日(土)~4月19日(金)

名女優佐々木すみ江さんを偲んでの『ゴンドラ』追悼上映会ポレポレ東中野で開催されます! お時間のある方は是非!

〈劇場WEB〉

https://www.mmjp.or.jp/pole2/

連日開映14時40分

ゲストを招いてのアフタートークもあります。

13日(土)  飯田譲治(映画監督)

14日(日)  朝岡実嶺(女優)

15日(月)今関あきよし(映画監督)

16日(火)  山田勝仁(演劇評論家

17日(水)オーイシマサヨシ(アーティスト) 

              加藤純一(YouTuber)

18日(木)   品田誠(俳優)

19日(金)  木内みどり(女優)

Episode34〜寅さん映画、アッバス・キアロスタミ、小津安二郎、サタジット・レイ、人間を肯定するステキな映画たち

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ハルです。

 

昨日に引き続いて、自作の解説から始めます。

上の画像は『真夜中の惑星ゲーム』という作品です。

怪しげな異界の魔物たちが何やらボードゲームに興じていますが、ゲームの駒やチップに使用されているのは、なんと天体の惑星です。

夜空の星々はすべて北極星を中心に回転していますが、水星、金星、火星、木星土星の五つの星だけは、他の天体の運行と関係なく、夜空を彷徨うように移動しています。その為「惑星」と呼ばれ、太古の昔、惑星は不可思議な大きな力によって動かされている、と信じられていました。

そういう話を、空想を膨らませて描いた絵です。

 

⭐️

 

一昨日の日曜の午後、妻と一緒に近くの市民会館へ、教育評論家の親野智可等さんの講演を聞きに行きました。

 

「叱らない」子育て論を普及されている元小学校教諭の親野さんのお話は、まるで漫談のように面白く、一時間半があっという間でした。

 

近ごろよく聞く「叱らない子育て」ですが、現役で子育てしている親からすると「叱らない」はまず無理です。

 

でも「叱らない」を提唱している方のお話を実際に聞いてみると、決して「叱ってはいけない」と言っているのでなく、「叱らなくてもいい」と言っているのです。

 

子どもは、叱らなければならない時もあるけれど(実際は親が思ってるほど多くない)、叱らなくてもいい時に叱ることが習慣づいてしまうと、子にとっても親とっても悪影響しかないということなのです。

 

「叱る」よりも、「褒める」「好きだよと言ってあげる」をたっぷりしてあげると、自己肯定感の土台がしっかり固まる。自己肯定感を持っている子どもは、何をするにも自信を持って行動し、失敗してもすぐ立ち直り、結果的に、自然に叱らなくてもいい人間に成長してゆくのです。

 

土台がしっかり固まっていない幼いうちに、叱ってばかりだと、自己肯定感はいつまでも持てず、自己肯定感のない子は自立心が育たず、結果的に、叱らずにはいられない子になってしまいます。

 

⭐️⭐️

 

話はガラッと変わりますが、

僕は映画『男はつらいよ』の大ファンです。48作すべて観ています。 

 

説明の必要がないほどの国民映画で、映画館やDVDで観たことがない人も、内容だけは、誰でも知っているでしょう。

 

僕は、渥美清演じる車寅次郎のこんな台詞が、記憶するくらいに印象に残っています。

 

親父はいつも俺にこう言ったもんさ、『おめえは俺が酔っ払った時に作った子だ、だからこんなバカに生まれたんだ』とね。俺ぁ悔しかったねぇ、真面目に作ってもらいたかったよ。好きでこんなバカに生まれたかったわけじゃねぇ。ガキの時分からバカだ出来そこないだと言われ続けて、ある日親父に死ぬほど殴られて、プイッと家を出て、それっきり。以来フーテン暮らしさ

 

この父親は今で言う完全な毒親でありますが、寅次郎が早々に家出したのは…まあ…賢明な選択だったと言えるでしょうね。

こんな親に育てられて、寅次郎は自己肯定感の低い人間かというと、そうも見えないのです。コンプレックスの強さは伺えますが、どこに行っても物おじせずに、やたら行動力だけはある。数々の失敗(失恋)にへこたれず、すぐ立ち直る。

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  この人間的したたかさ(言い換えると人並み外れた自己肯定感)はどこから来るのか。

 

寅次郎が失敗をしでかして、「とらや」の家族が頭をかかえるたびに、柴又題経寺の御前様(笠智衆)が、よくこんな台詞を言うのです。

 

あの男(寅)は愚かな男だが、仏に愛されておるのですよ。仏は愚かな人間が大好きなのです

 

寅さん映画の世界観はこんな具合です。

寅はバカな男で数々の失敗を繰り返すけど、最終的には「とらや」の家族は寅を温かく受け入れている。

その「とらや」も含めた柴又のコミュニティ全体を、題経寺の御前様が見守っている。

 

寅の行動を注意深く見ていると、とても信心深い男だと言うことが分かります。いつも帝釈天の御守りを首から下げているし、旅の先々で、神社仏閣へのお参りと賽銭を欠かさない。

 

何故この映画がギネス記録になる程長い間続いたのか。何故日本人はこの映画を愛してやまないのか。

 

僕は寅さん映画の世界観そのものに、その魅力があるような気がしています。

 

⭐️⭐️⭐️

 

このブログではたびたびイスラムについて述べています。

前回はイスラム教徒でもないのに、イスラム絶賛の記事を書いてしまいました。

Episode33〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/17/082906

 

 

僕はかつて、イランのアッバス・キアロスタミ監督の映画を夢中になって観ていたことがあります。

 

アッバス・キアロスタミ作『友だちのうちはどこ?』トレーラー

https://m.youtube.com/watch?v=vWTL9AFrxUo

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これは、友だちのノートを間違って持ち帰ってきた子どもがノートを返しに行く、というだけの映画ですが、この作品にはイランのごく普通の庶民、子どもたちの姿が(ほとんど職業俳優ではなく素人だそうです)、ありのままに、素朴に描かれています。

 

日本語字幕はついていないんですが、フルバージョンの動画もあります👇。これを見ると、イランの庶民生活の匂いがよく分かります。

https://m.youtube.com/watch?v=yE1GFeiZn_4

 

イラン映画ですから、登場人物は当然みんなイスラム教徒です。

でも映画には、特別強く宗教色が押し出されているわけじゃない。

 

イランの庶民は、女の人はマメによく働いていますが、男の人たちは働いてるんだか働いてないんだかよく分からない。ある意味ダラけていて、ノンビリしていて、でもみんな不思議と充足して生きているように見えます。

 

僕がこの映画に惹きつけられるのは、俳優の演技とか、風俗とか、そういう部分ではなく(それも勿論素晴らしいのだけれど)、映画全体を包み込んでいる、この世界観です。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️

 

アッバス・キアロスタミ監督は、熱烈な小津安二郎ファンでもあります。

 

『友だちのうちはどこ?』は小津安二郎の初期シリーズ『突貫小僧』に大きな影響を受けているようですね。これも一見にしかず、見比べてみるとよく分かります。

小津安二郎作『突貫小僧』

https://m.youtube.com/watch?v=gshM6WBr1nU

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男はつらいよ』の山田洋次監督は、小津を育んだ松竹蒲田風の正統な継承者だし、キアロスタミはその小津に多大な影響を受けている。

 

…と映画史の「文脈」で、寅さん映画、アッバス・キアロスタミ小津安二郎共通性を、一応説明はできるんですが、僕は、これらの映画に通底する世界観は、もっと大きな説明が必要ではないかと思うのです。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

ここでもうひとつ、僕の大好きな映画を紹介します。インド古典映画の傑作『大地のうた』です。

サタジット・レイ作『大地のうた』フルバージョン(日本語字幕はついていませんが、1:10:40以降の蒸気機関車のシーンが素晴らしい)

https://www.dailymotion.com/video/x6j4i9n

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これも、名もない庶民の生活が素朴に描かれている、それだけの映画ですが、どうしてこんなにも魅力に溢れているのか。

何か大きなものが、この映画の世界全体を包み込んでいるように感じます。  

 

 

寅さん映画、アッバス・キアロスタミ小津安二郎、サタジット・レイ、これらの映画に通底する「何か」。

 

その何かを、といってもいいし、といってもいいんですが、その「大きなもの」が世界全体を包み込んでいて、登場人物一人ひとりをも、包み込んでいる。

 

登場人物は物語の中で失敗したり、挫けたり、不幸に見舞われたりして、倒れることもあるけれど、力強く、また立ち上がる。

 

彼らは「自己肯定感」など意識することもありません。「大きなもの(=神あるいは仏)」に最初から肯定されているから、包み込まれているから、どんなことがあっても生きていける。立ち上がれる。

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これらの映画に共通して感じる「大きなもの」は、映画の製作者も意識して作り上げているわけではないと思うんですよ。たぶん、自然に滲み出ているものです。

 

これは、CG全盛の現代の映画には、決して感じられないものです。

 

この世界の一人ひとりを包み込んで、全肯定してくれる「大きなもの」。

 

それがあるから、人間は絶望せずに生きていけるんじゃないでしょうか。たとえ絶望しても、また立ち上がることが出来るんじゃないでしょうか。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

では、また。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

Episode34~END~

 

To be continued

 

Episode33〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い④

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ハルです。

 

トップ画像に僕の作品画像を掲載するようになってから、アクセス数が若干上がったみたいです。

今回も、自作解説から始めます。

👆は『コスモラジオ』という作品です。

この作品の前に描いた『妖精受信機』👇の、発展型の、空想上の機械です。

このラジオは、人間の想像力を受信して形を与える機能を持っています。ガラス管の中では妖精が形作られているし、機械内部の上の方では、火の玉を司る女神と、龍が生成しています。

現代の私たちの生活には、ラジオもテレビも当たり前に存在していますが、その昔、箱の中から声が聞こえたり、映像が映し出されるのを見た人たちは、不思議な気持ちになったのではないかと。そういう機械がどんどん発展していって…

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…そういう空想だけは子供の頃から絶えたことがないので、絵を描くのをやめることはありませんね。たぶん。

 

⭐️

 

ここ数回「僕はアートの世界の『文脈』が嫌い」という題で書いてきたけれど、結局、僕は子供の頃から、自分の頭の中に浮かび上がってくるものに、現実の世界以上に興味を持っていて、酔いしれてもいて、大人になってから仏教だの、聖書だのも入りこんできて、そんなことを50年近く続けているから、自分の頭の中にかなりボリュームのある「文脈」が出来上がっているのです。それがアートの世界で言われている「文脈」の上に乗るのかどうか知らない。大学で一応美学や美術史も勉強したから、大まかな流れは知っているけど、美術に限った歴史や学問には、どうにも興味が湧かない。興味が湧かないから、その「文脈」に乗ろうが乗るまいがどちらでもいい。Episode30で書いた通り、僕は「アートの世界」という「会社」から降りたようなものなので、「会社の出世コースに乗ったか乗らないか」というのと同じくらいに興味が湧かない話です。

ただ僕は、家族と共に食いつなぐことが出来て、絵を描き続けるだけのお金は欲しいと思う。それだけが望みです。

 

「どちらでもいいと思うなら、わざわざ『興味がない』なんてイヤミったらしく書かなくてもいいじゃん」という意見もあろうかと思うけど、わざわざ「興味がない」と書いておかなきゃならないくらいに、いまの私たちの住む社会はアートの世界を含めて相当歪んでいるように見えます。はっきり言えばアートの世界全体が新興宗教化しているように見えるし、「その新興宗教と自分は関係ない」という意見表明だけはしておきたい。

 

⭐️⭐️

 

「不快をもよおすアート作品」があるとするなら、作者は明確に「見た人が不快になるだろう」と意図して作っています。

 

ナントカという心理学者(検索して調べてね)の研究によると、人間というものは「心地よい」ものよりも「不快」なものに惹きつけられ、大きく心を動かされることが明らかになっています。そりゃそうです。「防衛本能」というやつは、快感より痛みに、心地よいものよりも不快なものに、強く反応して、それを遠ざけようとしますから。

 

「不快感を与えるアート」をあえて作るアーティストは、そのいう人間心理を知った上で、確信犯的に作品制作して、発表しています。

 

ならば、それを見る側は、見る側の感覚に忠実に従って、不快感を感じたら「そいつを遠ざけていい」んです。アートだからって受け入れなきゃならない道理はないんですよ。会田誠さんに不快感を感じたら遠慮なく石を投げていいんです。それが人間としてまっとうな自然な行為です。会田さんだって本心ではそれを望んでるんじゃないかな。知らんけど。

 

会田さんが訴えられた件では、受講した女性が「性的刺激の強い映像を見せられて苦痛を感じた」との事です。ネットの意見を見ると、アート側の住人は概ねこの女性を非難しています。僕はいくつか読んでみましたが、どれも大意は「アートが分からない無知な女だ、もっとアートを勉強しろ」というもの。僕は正直言って「アートの住人の考え方って、このエリート意識で何十年も止まったまま、変わらないんだな」と思いましたよ。

 

何故「性的なものを見せられて不快感を感じる」のか?  生物本能からしたらおかしいではないかと思えるけれど、これは正確に言うと「公的空間で性的なものを(本人の意思を無視して)見せられるのが不快」なのです。この感覚は異常でもなんでもありません。人間としてごく自然な感覚です。

 

最近、イスラム文化を知るようになり、その理由が分かるようになりました。イスラムは結婚したカップルの性に寛容な反面、性のタブーも厳しく定めています。婚前セックス、不倫は重罪。女性にポルノを見せるのも重罪です。外出する際女性は身体の性的アピール部分をヴェールで隠す。婚姻関係でない男女が二人きりで同席することは禁止されています。握手等で男女が肌を触れ合うことも絶対にダメ。これら性に関する定めは厳しいようですが、人間の性質を熟知した、きわめて人間的な定めだと思います。

 

これは、人間の性質を原理的に考えれば分かるんですよ。

 

ポルノが氾濫して、女性がセックスアピール満点の姿で闊歩していて、セックスフリーの先進国で何が起こっているかというと、少子化問題です。「少子化が起こるのは国の政策が悪い」と言うのは見当外れで、「子孫を残すためにセックスをする」という大元の原理を忘れて、セックスフリーにしているから、こんなことが起こるのです。

 

シャリーアイスラム基本法)には「結婚したらどんどんセックスしろ」(まあこんな直接的な書き方じゃないけど)と書かれています。結婚して寝室に入ったら欲望のまま何をしてもいい。そのかわり、結婚前や公共の場での性のタブーがある。タブーがあった方が燃えあがるのが人間の性です。現にイスラムは移民も含めて人口が増えています。寝室で燃えあがって思う存分セックスしているからです。婚前セックスや不倫で無駄なセックスはしないんです。合理的な考え方です。

 

男にとっちゃ、そもそも外出しても女性と同席する機会がないし、外で見かける女性はセックスアピールを完全に隠している。ポルノもない。だとしたら当然「唯一女の性的アピールを見せる自分の妻」に燃えあがるのが道理なのですね。イスラムの社会は合理的に、とてもうまく出来ているんです。

 

性的欲望を刺激するものがイスラムには皆無かというと、そんなことなくて、千夜一夜物語を読めば分かりますが、ポルノ小説まがいにセックスの描写がバンバン出てきます。視覚的刺激はタブーですが、文章ならいいんです。それに文章で性的欲望を刺激するのは、かなりレベルの高い知的行為でもあります。ヌードを見せて興奮させるのは誰にでも出来ます。

 

イスラムの女性はヴェールの下は何を着てもいい。派手で刺激的な下着を着て、パートナーだけにそれを見せて興奮させる。イスラムの女性は往来で不特定多数の男を興奮させる格好で歩くことをしません。「セックスする相手じゃない男を興奮させてどうするの?」という理屈です。これも合理的な考え方ですね。

 

公的な場では、性的欲望を刺激をするものを完全に排除する。私的な場では完全フリー。これは人間の性質を熟知した人間的な定めだと僕は思いますが、読者の皆さんはどう思いますか?

 

⭐️⭐️⭐️

 

会田誠さんは彼なりに「アートの世界の論理」に忠実に従って、現代アーティストとして誠実に作品制作をしています。僕はこれを非難する気はまったくありません。「会社員が会社の論理に従って誠実に仕事をしている」のと同じことです。彼は自分の使命に忠実に生きているだけ。彼が作る、その会社のお墨付きの製品が気に入った人は買えばいいし、気に入らないなら買わなくていい。それだけのことです。

 

「会田さんに見せられた画像で苦痛を感じて訴えた」女性も、間違ったことは何もしていません。(どんな画像だったか知らないけど想像できる)その映像に不快感をもよおし、公的空間から排除しようとするのは、きわめて人間的な自然な行動です。会社の製品に酷い目にあった消費者がクレームをつけたり、訴えたりしちゃいけないのかという話。

彼女を非難する人は「アートの悪しき毒」に頭がやられて本末転倒を起こしていると思いますね。

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さて、

「僕はアートの世界の『文脈』が嫌い」というテーマで、4回にわたって書いてきましたが、このテーマでの記事は、ひとまず、ここで終わりにします。

 

では、また。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます😊

 

Episode33~END~

 

To be continued

 

 

【参考までに…】

Episode30~僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052

Episode31~僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252

Episode31~僕はアートの世界の「文脈」が嫌い③

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/15/225216

 

Episode32〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い③

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ハルです。

 

前回、前々回と、アートについての僕の思いを忌憚なく正直に書いてみました。

Episode30〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052

Episode31〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252

 

毒親の話題からは離れますが、このブログは「自分の心の変遷」の記録でもあります。

やはり、アートへの思いは書こうと思えば溢れるほどあるので、ここでまとめて書いておこうと思います。

 

👆冒頭の画像は『祝福すべき多くの世界』という作品です。

これは僕にとっての「悲母観音像」とも言えるもので、私家版仏教絵画のシリーズに連なる作品です。

 

この作品は「佼成」という、立正佼成会の機関紙の表紙に掲載して頂いた事があります。

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僕はかつて創価学会に所属していたことがあります。(そこを脱会したことは、このブログに度々書いています)。ご存知の方がいるかも知れませんが、創価学会も、立正佼成会も、日蓮仏法の「文脈」に連なる宗教団体です。

 

僕は創価学会という団体には、もう未練も執着も持っていませんが、日蓮仏法には、今でも言葉では表現しきれないほどの思いを持っていて、僕という人間の何割かは日蓮仏法によって成り立っているとさえ思っています。

 

日蓮の教えに連なる宗教団体の機関紙の表紙に、しかも私的な「仏画」のつもりで描いた作品が掲載されたことに、言い難い仏縁を感じざるを得ません。

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さて、

ここからいきなり話が転換して、アートのお金の話になります。

現在の日本のアート市場は3000億円ぐらいだそうですね。一方、世界のアート市場は約20倍、6〜7兆円だそうです。

 

最近の世界のアート市場規模を数字の上で押し上げたのは言わずと知れた中国マネーです。伸び率の数字をここに書くとクラクラしてくるので書きませんが、とにかくビックラこく数字なのは間違いない。

 

ただアート市場全体としては、ここ数年「頭を打った」感があるように感じます。上がったとしても「桁外れの伸び率」は、もうないのではないでしょうか。

 

その根拠は(もう誰もが分析していますが)、

ひと昔前まで後進国だった中国が先進国入りして、お金持ちになった分、アートにお金を使うようになりました。アート市場の売上の伸長に中国マネーが貢献したのは間違いない。ここに来てアート市場の伸び率が止まったのは、中国の経済成長率が止まったから、というのが大きな要因です。

 

世界の、残る後進国を経済発展させてお金持ちにすれば、またアート市場は伸びるでしょうけれど、地球上を見渡してみると、それらの後進国の多くはイスラム教国家が多い。

 

イスラムの国で、性器を晒した作品はまず受け入れられない、というか、ナチス焚書みたいにボンボン火にくべられてしまうか、自分の◯◯◯を作品にした某女性美術家などは殺されても文句は言えません。

 

…と、少々オーバーに書きましたが、イスラムはそもそも「形あるもの」に執着することを嫌う宗教なので、造形芸術そのものが、イスラム教国家では成り立たない、と想像されます。

 

仮にイスラム教国家が軒並み豊かになったとして、現代アートの売上が、中国経済が伸長した時と同じように伸びてゆくのか?

 

⭐️

 

でも、よくニュースで聞きますよね。「◯◯の作品が◯◯オークションで最高落札価格更新!」とか。そのうち作品一点が10億ドル(1000億円)超える日が来るだろうとも言われています。

 

アート市場は相変わらずイケイケで景気がどんどん良くなってきている印象があるし、これが永遠に続くようにも思えます。

 

ただ、僕の肌感覚ですが、「売れる作家・作品」と「売れない作家・作品」の格差はどんどん開いてきています。一見景気がいいように見えるアート市場ですが、お金は一部の「売れる作家・作品」に集中して、その傾向はどんどん強まっているように感じます。

 

景気がいいように見えるし、「何某という作家が◯◯という記録を更新した」という話もよく聞きます。でも現場の作家には「景気がいい」という感覚はまるでありません。

 

A.めっちゃ売れる作家

B.そこそこ売れる作家

C.売れたり売れなかったりの作家

D.売れない作家

 

と大雑把に分類すると、僕は15年くらい前まではB、10年ほど前からBとCの間ぐらいになり、今はCとDの間ぐらい。(そのうちDに転落するかもという恐怖に打ち震えています)。

 

ナンチャラの法則(検索して調べてね)というのがあって、市場が成熟すると、上位2割が全体の8割の売上を独占するそうです。僕の肌感覚でも、現在のアート市場は、この法則に当てはまっていると思います。

 

もうひとつの定理があり、上位のお金持ちほど、B、C、Dには見向きもしない。これも僕は肌感覚で痛いほど分かります。

 

「Dに転落しつつあるのが分かっているなら、上位2割に食い込む戦略を立てて、努力すればいいじゃないか」と言われるかも知れませんが、(そういうことも今までけっこう言われたものですが)、正直なところ、いまの僕には、まったくその気持ちが湧いてきません。

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あ、

懸命な読者はもうお気づきかも知れませんが、今のアート市場のど真ん中で活動したい、という方には、僕の文章は何の役にも立たないので、もうお読みにならなくて大丈夫です。

 

何度も言いますが、このブログは、僕の私的な「心の変遷」を記録するのが第一目的なので、ここまでに僕が書いたことも、とどのつまりは、心を病んだ一絵描きのタワゴトに過ぎません。

 

さて、タワゴトを続けるとします。

…とはいえ、少しは役立つ(かもしれない)話を、ここから書いてみますね。

 

僕は院展という、権威ある日本画の公募団体に、20年出品していました。

 

僕が院展で思い知った絶対原理は、

 

作家には自分の作品の価値を決めることは出来ない。

 

ということです。

 

どんなに「作家の価値観で傑作と思える作品」を描いたとしても、落選したら「価値なし」です。これは作家がどんなに歯ぎしりしても、動かすことが出来ない絶対原理です。 

 

入選する→受賞する→無鑑査になる→同人(審査員)になる…という階段を上がるごとに、作品の価値(値段)は上がってゆきます。

この原理は機械仕掛けの歯車のように徹底しています。

 

徹底していないと、マーケットが混乱して、あっちこっちに不都合や、トラブルが頻発してしまいます。

 

作家に自分の作品の価値(値段)を決める権限はありません。

作家とその作品の価値(値段)を決めるのは、公募展の審査員です。

厳正なる審査を経た公募展での成績によって、作家・作品の価値が決められます。

 

ちなみに、僕の作品の現在の販売価格は、院展に入選を続けていた頃に決められたものです。

僕は今は院展を辞めて無所属です。

辞める時に画商さんに相当反対されました。「作品の価値を決める場所」からドロップアウトしてしまうわけですから、出来るだけ作品の価値(値段)を上げて売りたい画商さんは当然反対しますよね。

 

それでも、僕の作品はそこそこ売れました。僕は公募展での位置よりも「作品そのもの」が評価される稀な作家だったので、そういう例外が起こったわけです。

 

⭐️⭐️

 

つい最近、院展の恩師だったF先生のお宅に伺って聞いた話によると、院展の審査員といえども、最近は作品が売れなくなったそうです。

 

別の公募展の審査員のT先生とお話をした際にも「大学教授や公募展の審査員でも今は売れないよ。私が知ってる作家で売れてるのは5人ぐらい。私も含めて皆売れなくなった」との事でした。

 

F先生もT先生も、日本画家なら誰でも知っている著名な作家です。その先生方が、こう言っているということは、つまり、作家の価値を決める権威は公募展から、別の場所に移ったのです。

 

現在、作家・作品の価値(値段)を決めているのは誰か?

 

世界のアートフェア、アートイベント(ベネチアビエンナーレ等)、有名美術館での展覧会を仕切るキュレーター。権威ある美術学者。有名コレクター。一部の投資家などです。

 

公募展の審査員のように、名前がはっきり公表されているわけではありませんが、分かる人には分かっています。(俺は知らんけど)。

 

彼らは、どこかの審査会場で一同に会して話し合っているわけではありません。その辺の具体的仕組みは僕もよくわからないけど、とにかく一部の権威ある人たちが現代アートの価値を決めている事は暗黙に了解されている事実です。

 

で肝心の「審査基準」ですが、これは公募展の審査が非公開でブラックボックスなのと同じで、現代アートの価値を決定する基準は、外からはまったく分かりません。

 

ところが、業界の暗黙知というやつが、どこにでもあるわけです。

院展に20年出品した僕の経験から言うと、ある程度入選を重ねると、ぶっちゃけ、ブラックボックスの中の審査員の価値基準が見えてきて、入選する為の「傾向と対策」がだんだん分かってくるものなんです。

 

現代アートにも、はっきり言えば「それ」があります。

 

村上隆さんは、現代アートが売れる「傾向と対策」を日本人作家の中でいち早くつかみ、しかもそれを「アートは文脈だ!」というメッチャ分かりやすいワンフレーズで広めた人です。

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村上さんは、僕の三年上の先輩ですが、学生時代から、とても絵が上手い上に、大変な努力家でした。

 

僕が大学一年の時、村上さんは四年生。僕が初めて観た芸大の卒業制作展の会場で、村上さんの作品は、はっきり言って、他を圧倒する出来栄えでした。

 

村上さんの卒業制作への意気込みは、隣の一年生教室で制作をしていたヒヨッコの僕たちにもビシビシ伝わる並々ならぬものであったことを、今でもはっきり覚えています。本人は首席をとるつもりでいたし、周りもそう感じていました。

 

ところがフタを開けてみると、卒業制作の順位は四番目。本人もあらゆる場所で述べていますが、相当なショックだったようです。

 

僕は今でも、卒業制作の審査をした先生方の価値基準が不可解でならないのですが、ひとつ考えられるのは、村上さんは「才能がありすぎて審査の先生方に嫌われたのではないか」ということです。

 

あまり大きな声では言えませんが、いや僕はもう芸大日本画科と縁もゆかりもなくなったから、はっきり言うけれど、日本画の世界は、上の先生から愛されないと、ほぼ一生浮かび上がれない世界なのです。

 

村上さんがそういう日本画の世界に早々と見切りをつけて、現代アートの世界に飛び込んだのは、まったく正しい選択でした。

 

新天地の現代アートの世界では、日本画の世界で痛い思いをした経験を逆バネにして、きっちり結果を出したのは、皆様ご存知の通りです。

これはマジスゲェ事だと僕は思います。

 

まあとにかく、作家には自分の価値を決める事は出来ない、作家の価値を決める人は作家には手の届かない雲の上にいる、という、身も蓋もない絶対原理がアートの世界には今も昔も存在しているのが現実なのであります。

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話をここで終わりにしてもいいのですが、仏教徒の僕は蛇足と知りながら、ここまでの「文脈」の末尾に「無常」の味わいを添えたいところです。

 

僕が院展に初入選したのは二十三、四の頃でしたから、もう30年近く前の事です。その時分の院展の「作家の価値を決める」絶対的権威は揺るぎなく、駆け出しの僕はそれが永遠に続くと思っていました。

 

その院展、その他の公募展の権威が次々と失墜して、名だたる日本画家の作品が「売れなくなる」とは、誰も想像しなかった事です。想像しなかった事が僅か30年で起きています。

 

僕はどうしても「無常」を感じてしまいます。

 

今「世界のアートの価値を決める絶対的権威を持つ」人々も、その権威が永遠に続くことはありません。

 

この世界は「無常」ですから。

 

⭐️⭐️⭐️

 

では、今日はこの辺で。

 

最後までお読み下さり、ありがとうございます😊

 

 

Episode32~END~

 

To be continued

 

 

※この稿続きます。

Episode33〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い④

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/17/082906

 

 

 

 

Episode31〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②

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ハルです。

 

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052

前回のEpisode30👆では、アートの世界でよく言われている「文脈」について書きました。

 

今回はその続きを書いてみます。

 

僕はアートと同じくらいに文学に傾倒しています。

 

文学作品は(当然のことながら)「文脈」によって成り立っていますね。

 

僕は、30代の頃、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み、人生観が根底から変わる衝撃を覚えました。

 

ドストエフスキー文学が書かれた帝政末期のロシアは、キリスト教会の権威が揺らぎ、無神論者が跋扈を始めた時代でした。

 

そんな時代、ドストエフスキーが訴えようとしたことは「人間は信仰から離れて、人間らしく生きることは出来ない」という、ごくシンプルなことです。

 

優れた「文脈」は、読む前と、読んだ後とでは、明らかに自分の意識が変わっています。

僕が宗教に心を惹かれるきっかけのひとつとなったのは、ドストエフスキー文学を読んだことです。

 

「文脈」の力とは、そういうものではないかと思うのです。

 

ドストエフスキー、いや欧米文学の根底には、キリスト教思想が濃密に流れています。文学だけでなく、絵画、音楽、哲学、政治思想、…  欧米文化全体は、キリスト教という「大きな文脈」の上に乗っています。

 

恩師の平山郁夫先生が、繰り返し、私たち教え子に伝えようとしたのは、日本文化全体は、仏教という「大きな文脈」の上に乗っているという事でした。

 

これは本当にその通りだと、今でも確信しています。

 

ある時代まではーー「近代」という時代が始まる前までは、あらゆる文化的営みがーー西洋ならばキリスト教の上に、東洋ならば仏教の上に乗っていました。

 

古典として残っている作品は、そのほとんどが西洋ならばキリスト教絵画東洋ならば仏教絵画であることが、その証拠と言えるでしょう。

 

宗教絵画は、「人間の誰かに見せる」という前に、「神(あるいは仏)に見せる」という意識で描かれているように思えます。現代の絵描きとは根本から意識が違うようです。「誰かを感動させたい」という意識すら無かったのではないかと思うのです。

 

けれど、その作品が、時代を超えて、私たちの心に訴える、力強い何かを持っています。  

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https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/101924

👆Episode24で「イスラム教徒には心を病む人、自殺する人がほとんど居ない」ということを書きました。

僕はいま明らかに心を病んでいますが、何故か「死にたい」とは思いません。「今は苦しいけれど、いつか乗り越える筈だ」と、どこかかで思っています。たぶん、これが信仰を持つ者の強みなんです。

 

現代の日本では年間3万人近く自殺で命を落とし、心の病で通院している人は300万人以上居るといいます。(こうして具体的数字を出すと、物凄いことだと、あらためて思います)。僕は、いまの日本で気が狂わないとしたら、むしろ、そちらの方がおかしいのではないか、とすら思っています。

 

現代人の生活から宗教が切り離され、同時に、芸術作品は宗教という「大きな文脈」から切り離されてしまいました。

 

芸術作品が必ず宗教と結びついていなければならない、と言うつもりはありません。

 

個人の楽しみの為であっていいし、現代アートのような知能ゲームであってもいいのです。

 

けれども「文脈」とやかましく言うわりには、宗教・信仰という「大きな文脈」からは、いまのアートは外れてしまっているように、僕には思えてならないのです。

 

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冒頭の画像は『私家版・十一面観音』

上の画像は『FUGEN』(普賢)という作品です。

僕にとっての、宗教絵画とは何か、という模索から生まれた作品です。

「大きな文脈」の末尾に連なる作品、という意図で制作しました。

 

⭐️

 

では、また。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます😊

 

 

Episode31~END~ 

 

To be continued

 

 

※この稿Episode32に続きます。

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/15/225216

 

 

 

Episode30〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①

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ハルです。

 

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/212759

Episode26👆で書いた最悪の状態は脱したようですが、まだメンタリティの波があり、今日は朝から調子が良くなかったです。

 

それでも、冒頭くらいの絵を描いているんだから、俺って偉いなぁ。(と自分褒めしておこう)

 

メンタルが下がったきっかけは分かっています。(それは後述)。今日は女房が朝から東京に出張で、夕方、高速バスのバス停まで迎えに行きました。車の中で女房が「今日調子はどうだった?」と聞くので「悪かった」と素直に答えました。

今までだと「大丈夫だったよ」と答えるところですが、調子が悪いときは「悪い」と答えるようにしました。「悪い」と答えたからといって女房に危害を加えるわけでないし、単なる体調の報告ですから。素直に「調子悪かったよ」と言った後は、いくらか気持ちが楽になりました。身体や心のサインは隠さない方がいいし、近しい人にはむしろ知ってもらった方がいいようですね。

 

僕はTwitter本垢Facebookでは、画家仲間や美術関係者と繋がっているんですが、ここ最近はそちらのタイムラインは意識して見ないことにしていました。

けれども、今「アートフェア東京」会期中でもあるし、会田誠さんが訴えられた件も(この業界では)ホットな話題でもあるし。

夜中に目が覚めた時にうっかりスマホを開いて、それらの件の記事を見て、一気にメンタルがダダ下がりになり、朝まで寝付けなかったのです。

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たとえばメンタルを病んで会社を休職(または退社)した人は、自分がもと居た会社で「誰それが出世した、活躍している」という話を聞いたら気分良くならないでしょうね。そもそも会社を思い出したくもないでしょう。

僕は絵を描くことはやめませんし、アートそのものには一生関わっていきますが、いまの「アート業界」は好きじゃない、いや、はっきり言うと、嫌いです。

鬱病で会社をドロップアウトした人が二度と会社には行きたくなくなるのと同じように、(僕はアーティストをやめるわけではないので、完全に離れるわけにはいかないけれど)出来ればアート業界からは距離を置いていたい、というのが本音。

 

この感覚を、分かるように説明するためには、少々込み入った説明が必要だし、今どきの美術関係者さんに「アート業界が嫌いなんです」と言うのは物凄くメンドい。いちいち会社に行って、会社に生き甲斐を感じてバリバリ働いている人に「この会社嫌いなんだよね」と言うのと同じくらいにメンドい。相手だって絶対にいい気分しないに決まってる。

 

ここに来て、会田誠さんが訴えられるという件が話題になって、まあ会田誠さんの仕事はこれまでにも何度も「炎上」騒ぎになっていて、そのたびに僕は一応コメントしたりしていたけど、僕もその時は一応アート業界なる「大きな会社」に関わっていたこともあり、否が応でも関心を持たざるを得なかった、ということもあります。

 

けれども今は、本当に「辞めてしまった会社」の話題を聞くような気持ちしか沸き起こってこないのです。こんな感覚になってしまったことに本人が驚いているけれど、正直、そのようにしか感じられない。

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いつの頃よりか「アートでは文脈が大事だ」と言われるようになって、…いや…いま、“いつの頃よりか”と空っ惚けて書いてしまったが、村上隆さんが「文脈」ということをやかましく言い出したんだけれど、「アートは文脈、背景の歴史が大事なんだ!」という言い方が流布されるようになってから、僕はアートの世界に、なんか、薄ら寒いものを感じ始めるようになりました。

 

村上隆の作品なんてタダのアニメオタクの絵じゃないか」

とか

会田誠の作品なんてタダのエログロじゃないか」

という批判をする者は、その作品が成り立つに至る文脈、文化的背景を見ていないのである!

会田作品を見て不快を感じたなら、「何故不快を感じたのか」を学問的探求心で掘り下げて考えてみるべきなのである!!会田作品をそこらのエログロと同列にみなす時点で、訴えた女性はアートの何たるかをまるで分かっていないのである!!!

 

…うう、こう書いてきて、なんか気分悪くなってきちゃった。マジで吐きそう。👆のような理屈をブチあげる奴に実際に出会ったら、俺、本当に吐いてしまうかも知れん。

 

⭐️

 

実際のところ、村上隆さんも会田誠さんも海外で高く評価されているし、それは作品そのものよりも「作品が成り立つに至る文脈」が評価されているからに他なりません。

 

「絵が上手い」だけじゃアートの世界では評価されないんです。作品の向こう側にある「文化的背景」まで感じさせるものでなければならないんですね。

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僕は院展という、岡倉天心が創設した日本画の公募団体に20年出品し続けていました。  

 

え?…岡倉天心、知らない?

…いや、それは検索でもして調べてみてくださいね。(^^;)

 

簡単に紹介すると、

歴史の教科書にも載ってる偉人で、たんに院展を興した「近代日本画創始者」にとどまらず、西洋思想に対抗しうる「大いなる東洋思想」を勃興しようとした思想家でもあります。

 

若き岡倉天心の時代には、日本に、西洋文化が奔流のようになだれ込んできました。

政治体制から庶民文化に至るまで、すべてが西洋流に大転換する時期で、美術の世界でも「古臭い日本画などもう終わりだ。これからは西洋画の時代だ」などと言われていたものです。

 

それに抵抗したのが岡倉天心でした。

彼の理屈は概ね、こうです。

 

「西洋画には、その芸術表現が生まれるまでの必然的な歴史背景がある。言わば根っこがあるのだ。西洋に生まれ育った西洋人が西洋画を描くなら根っこがあるが、遠く離れた日本に住む日本人が、表面だけ西洋画を真似て描いても根っこがない。日本人ならば、東洋に脈々と流れる文化の歴史を知り、その土台の上に立った芸術表現をすべきである。」

 

偉いものですね。🤗 

 

岡倉天心は百年以上前に、芸術作品はその作品が成り立つに至るまでの歴史背景(文脈)が大事だ、ということを、既に言っているんですね。

 

これは本当にその通りだと思います。

 

僕は、岡倉天心の血脈を正統に受け継いでいる平山郁夫先生の薫陶を受けたので、この考え方が身に染み込んでいます。

 

平山郁夫先生は、「仏教伝来」「シルクロードシリーズ」で、日本の諸文化が、長い歴史の中でどのように伝えられ、どのように結実したのか、我々が寄って立つ文化の来歴を絵画で表現したのですね。(👇の画像は平山先生の代表作『仏教伝来』です。)

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平山作品の価値は(勿論作品そのものにもありますが)やはり「作品の背後にある歴史背景」にあります。

平山先生ご自身もよくこう言っていたものです。「歴史が感じられない物には絵心が湧かない」と。

物事の表面ではなく「その背後にあるもの」に、常に注目していたのですね。

 

もうこのブログで何度も書きましたが、僕は恵林寺というお寺とご縁があります。

現住職の古川周賢老師に、今年の正月、おおむね、次のようなとても興味深いお話を伺いました。

 

お寺に奉納する仏画、襖絵、天井画は、本来、そこに住み修行する僧の、修行の支えになるべきものだ。だから昔の絵師は寺に住み込み、僧と同じ生活をし、仏教知識を身に染み込ませた上で、寺の中で作品を描いている。しかし現代のお寺に奉納される作品は、寺とは離れたアトリエで、画家の独りよがりの感覚によって、描かれている。

 

古川老師によると、加山又造画伯の天龍寺天井画龍図や、千住博画伯の聚光院伊東別院襖絵なども、本来、お寺に奉納される天井画、襖絵の文脈から外れているそうです。それらは「アート作品」なのかも知れないが、「修行の支えとなるべき作品」からは外れている。昔は当たり前のように絵師が寺に住み込み、寺で制作することがあったけれど、それがなくなり、「アート作品として『鑑賞』されるものではあるけれど、仏法修行の『支え』になるものからは外れている」というチグハグなことが起こるようになってしまった。

 

僕は古川老師の見識はその通りだと思います。

早い話、お坊さんの袈裟を、一流のファッションデザイナーにデザインさせれば、優れた「アート作品」になるかも知れない。でも修行をする僧の衣として適切なのかどうか、という事なのです。

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村上隆さんの五百羅漢図などは、アート作品の文脈には乗っていますが、仏教の文脈には乗っていないのですね。

 

現役の老師が言ってるのだから、これは間違いありません。

 

さて、ここまで書いてくると、薄々分かっていただけると思うんですが、いまアートの世界でやかましく言われている「文脈」って、とどのつまり、西洋人の作り上げた文脈なのです。

 

村上作品も会田作品もそこに見事にはまっています。だから、アートの世界では本当に高く評価されています。僕もアートの世界の「社員」だった頃はそう思っていました。今でも批判するつもりはありません。

 

評価するつもりもないけれど。

要するにまったく興味を失ったのです。これはもう仕方がない。

 

いまの僕にとって、アートの世界は遠い世界のように感じられるし、いまいちばん何に心惹かれるかというと、仏教、というか宗教ぜんたいですね。

 

仏教の「文脈」には興味があるけれど、アートの世界の「文脈」には興味が沸いてこない。これが、偽らざる気持ちです。

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海外ではめっちゃ高く評価されているのに、村上作品や会田作品は、日本ではイマイチ評判が良くない、というか、バッシングすらされています。

 

個人的には「嫌いなら見なきゃいーじゃん。いちいちディスらなくてもいいのに」と思うけど、「村上作品や会田作品の価値を理解できない日本人はバカだ」と言う人を見ると(村上さんはご本人がちょくちょく「バカ」と言っているわけだけど)、「いや日本人に理解できないのは当たり前だよ。アートの世界で言う『文脈』って、西洋人のこしらえた『文脈』だもん」って思いますね。

その「文脈」は西洋人の血肉にはなっているけど、日本人の血肉にはなっていない。だから村上・会田作品を見て「はあ?」と感じてしまうのは無理からぬことなのです。いや、学問的に理解することは出来ますけどね。

 

Episode24でイスラム教について書きましたが、今や世界人口の3割がイスラムだし、イスラムが世界の趨勢の主導権を握ることだって、あり得ないことじゃない。

イスラム文化圏では、女性にオナニーやセックスの画像を見せたら、まず殺されてしまいます。そういう、西洋人とはまったく異なる文化的背景を持つ人々に、いまのアートの世界の「文脈」って通用するのかな、ということは、時々考えますね。

Episode24〜伝統宗教は心の病に効く!

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/101924

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それでは、また。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます😊

 

 

Episode30~END~ 

 

To be continued

 

 

追記

この稿は次回Episode31に続きます。

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252

 

 

Episode29〜「良い子」はつらいよ

 

ども、

ハルです。

 

昨夜は「星空観察会」というお泊りイベントに息子と参加しました。この写真は宿泊施設の「八ヶ岳少年自然の家」の部屋から見た早朝の景色。

 

まるでPCのデスクトップ画像みたいな風景。

 

昨夜はあいにく雲が多く、星はよく見られませんでしたが、息子にとっては「お泊り」じたいが楽しい。

 

僕は家族旅行の思い出が、一度だけあります。

 

伊東温泉のハトヤホテルに家族で一泊して、「家でない場所」で寝る何とも言えないワクワク感は、今もよく覚えています。

 

息子は家族旅行が大好きですが、「何が一番楽しかった?」と聞くと、「ホテルに泊まったこと」と言います。

 

親は「それかよ!」と思うけど、まあ、子供はそんなものかも知れないな。それでもいいか。

 

身体の中にほんの少しでもワクワクした記憶が残っていると、それを足掛かりに「幸福な思い出」を積み上げることが出来ますね。

 

そいつを、出来るだけやっていこう。

 

調べれば、お金をかけずに泊まれる所はけっこうあるし。「八ヶ岳少年自然の家」とか公営の宿泊施設は激安だし。

毎朝恒例の、カウンセラーの井上秀人さんから届く音声音源。昨日は「良い子をやめる!」という内容でした。

 

毎度「ビシビシ自分の事が言い当てられている」と感じる内容です。

 

「良い子」というのは、「良い子でないと自分の居場所がない子」です。

 

苦役のように「良い子」でい続けることを強いられている子です。

 

親から離れても、自分で自分に、その苦役を課している。

 

苦役を自分に課すのをやめようよ」と、井上さんは言っているのです。

 

⭐︎

 

今回も『テレホン人生相談』の音源リンクを貼りますね。

👇は「良い子を演じ続けて、とめどなく沸いてくる怒りをコントロール出来なくなった男性」の相談です。

https://m.youtube.com/watch?v=-k9eEtmCshU

 

相談者は40歳の独身男性。65歳の父、66歳の母と実家に同居しています。

 

第一声から感じるのは、感情を押し殺したような、独特な声色。

 

相談者の悩みは、…

日常の些細な出来事がきっかけで、自分でも戸惑うばかりの激しい怒りが沸いてくる、そのコントロールが出来ないでいる、という事。

 

話が進むにつれ、相談者は「抑圧する父への怒り」を、潜在的に抱えていることが分かってきます。

 

コントロール出来ない程の怒りを抱えながら、それを家族にも、誰にも、ぶつけた事が一度もない。

 

人と喧嘩したこともなく、感情をむき出しにすることもなく、自分の好きな事に打ち込むこともなく、自分の感情を抑え、他人の機嫌を損ねないように、ひたすら「良い子」の仮面を被り続けた人生。

 

気がついてみると、その仮面の下に、激しい怒りが渦巻いていた。

 

加藤諦三先生は「このままあと10年経つと、胸に溜め込んだ怒りの感情はもっと強くなり、もっとコントロール出来なくなりますよ」と言い、「自分の感情に素直になる時間を持つ為に(抑圧する)父と離れて暮らした方がいい」とアドバイスします。

 

この相談者が、この後どうなったのかは分かりません。

 

僕がこの音源を聴いて感じたのは、

 

「これは俺だ」

 

ということ。

 

そして、

 

「加藤智大と同じだ」

 

ということ。

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ここで、あの「秋葉原事件」で死刑判決を下された死刑囚の名を出したとしても、意外に思う読者は少ないかも知れません。

 

事件の内容について、ここでは詳しく書きません。

 

僕が言いたいのは、

 

「本人にもコントロール出来ない怒り」は、家庭の中で、長い長い時間をかけて蓄積されてゆくものだ、という事。

 

その「怒りのエネルギーの大きさ」は、本人にも見えないだけに、気がついた時には、およそ致命量寸前にまで膨れ上がっているものだ、という事。

 

子供の体内に蓄積されている「怒りのエネルギー」を、親が一番あなどっている、という事。

 

⭐︎

 

決してあなどってはいけないけれど、「怒り」の正体に気づけば、そいつを「飼いならす」ことは可能な筈です。

 

飼いならす為に、まず、「飼育記録」をつける。

 

このブログは、僕の「感情」の飼育記録でもあります。

 

あなどってかかると、たちまち猛獣と化す「感情」の飼育記録をつぶさに書きとめ、そいつに首輪をつけ、リードをしっかり握りしめ、時には思い切り走り回らせる。

 

このブログは、僕が自分の「感情」を飼いならし、完全に制御下に置くことが出来るまで、続ける予定です。

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それでは、今日はこの辺りで。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます😊

 

 

Episode29~END~

 

To be continued