毒親連鎖を断ち切りたい

子供の頃から長い間押さえこみ続けた負の感情の蓄積は人生に大きなブレーキをかけてしまいます。ここで真剣に毒親問題に取り組み、負の連鎖を完全に断ち切りたい。このブログで「脱毒親への道」を記録してゆきます。

Episode40〜「アジャセ王子」と「カラマーゾフの兄弟」親殺しの物語

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ハルです。

 

前回Episode39を書いてから、6日開いてしまいました。

【Episode39〜豊田市三つ子虐待死事件は「善悪の彼岸」にある出来事ではないか?】

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/25/220428

 

とても重い内容だったことと、お友達のコメント欄に書き込みをしたり、コメント欄の他の方の書き込みを読んで、更に深く考えてしまい、新しい記事を書く気になりませんでした。

 

このブログは重たい記事が多いので、毎日記事をアップするのは精神的にとても無理です。一週間に一記事くらいがちょうどいいのかなと思ってます。

 

どうか気長にお付き合いください。

 

⭐️

 

「親殺し」「子殺し」は法律上の犯罪であるだけでなく、仏教、キリスト教イスラム教、あらゆる宗教で大罪とされています。

 

その罪を犯してしまった者は、たとえ裁きを下されなくても、みずから、自責の念で苦しみ抜くことになります。

 

現代は法の下であらゆる人間が平等ですが、その昔は、特権階級の人間は殺人の罪を犯しても裁かれることなく免責されていました。(現代でも北朝鮮のような独裁国家では、最高権力者が殺人を犯しても裁かれることはありません)

 

しかし、たとえ特権によって法による裁きが下されなくても、罪を犯した者の心には「苦しみ」という罰が下されます。人間の心は、そういう風に出来ています。

 

⭐️⭐️

 

👇これは仏典にある有名なお話です。

【親殺しアジャセ王子の物語】

http://onboumaru.com/085-ajasetoshaka/

 

父ビンビシャーラ(頻婆娑羅)王を殺した子のアジャセ(阿闍世)は、特権階級の人間ですから殺人の罪では裁かれることはありません。しかしその罪に苦しみ抜いて、苦悩が身体にも及んで恐ろしい病に冒されます。

 

アジャセの苦悩からくる病は、母イダイケ(韋提希)夫人の慈愛と、仏陀の慈悲によって取り除かれた、と伝えられています。

(下の画像は手塚治虫の漫画『ブッダ』の一場面。ブッダの指から溢れでる慈悲のエネルギーでアジャセが癒されるシーンです。)

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⭐️⭐️⭐️

 

世界文学最高傑作とされる、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も、「親殺し」の物語です。

 

カラマーゾフ四兄弟の父ピョートルのモデルは、ドストエフスキーの実父ミハエルだと言われています。ミハエルは典型的な毒親でした。ドストエフスキーは若い頃から父へ強い憎悪を抱いていましたが、ミハエルがある殺人事件によって殺されてしまい、そこで初めて「自分の心の奥底にあった父への殺意」にみずから気がつき、あたかも自分の手で父を殺してしまったかのように思い、苦悩します。

その心理的体験が『カラマーゾフの兄弟』という作品に結実しています。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️

 

アジャセにしてみれば父ビンビシャーラを憎む理由があったし、ドストエフスキーにしてみれば父ミハエルを憎む理由がありました。そして、世の中には、親を殺したいほど憎んでいる子は多いでしょう。

 

毒親問題とは今に始まった現代的な問題ではなく、宗教の聖典にも書かれている、きわめて根深い問題です。

 

有り体に言って、僕は去年の暮れの妹からのメール以来、とても苦しい心の状態が続いています。

 

これは自分ひとりの苦しさではなく、太古の昔から、アジャセが生きていた時代から続く、運命的な重荷であるような気がします。

 

しんどいけれど、生きていかねばなりませんね。

 

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では、また。

 

いつもお読みくださり、ありがとうございます。

 

Episode40~END~

 

To be continued

 

 

 

Episode39〜豊田市三つ子虐待死事件は「善悪の彼岸」にある出来事ではないか?

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ハルです。

 

豊田市の30歳女性が、生後11ヶ月の三つ子の次男を床に叩きつけて死なせてしまった事件で、3年6ヶ月の実刑判決を下された」というニュースについて、はてなブログのお友達がまったく正反対の意見を書かれていて👇、僕はこの事件に意見を述べるつもりはなかったのですが、ブロ友お二人の意見を読んでいるうちに、ふと、思いつくことがあったので、書いてみることにします。

猫pさんのブログ〜豊田市の三つ子次男虐待死事件について思うこと

http://nkobi1121.hatenablog.com

桃さんのブログ〜豊田市三つ子虐待死事件について

https://www.minimum-kosodate.com/entry/2019/03/24/190051

 

判決前に、残された二人の子と面会した母親が下記のコメントを発表し、このコメント以降、母親への同情の声が高まりました。

https://gifutatainet.com/?p=7320

 

ネットではおおむね、同情の声が多いようです。「実刑ではなく執行猶予を。母親が罪を償いながら、残された二人の子育てを出来るようにして」という署名活動も始まっています。

 

一方で(猫pさんのように)「いかなる理由があったとしても、ひとたび子の命を奪った者が、再び子の命を預かることはあってはならない」という意見を持つ人も居ます。

 

⭐️

 

僕は、第三者が、個人の意見で、この母親を「許す」「許さない」と言うことは出来ない、と思っています。

 

…この言い方、少し難しいですかね。。😓

 

賛否両論あるネットの意見を読んでいるうちに、僕は、こんなことを思い浮かべました。

 

その昔は「口減らし」「間引き」という風習がありました。生まれた子をすべて生かしておくと、家族共々生き残ることが出来ない場合、意図的に選別した子を殺生する風習です。

この豊田市の件は、明らかに「母親の育児能力を超える人数の子供が生まれてしまった」のだと思います。「口減らし・間引き」の風習があった時代ならば、出生時点で三人の子のうち何人かを殺し、残りを生かす、という選別をしたかも知れず、親がその選別をしたとしても、社会は黙認したのではないでしょうか。

私たち現代人は、自分が「そういう残酷な時代に選別されて生き残った末裔」という事を忘れています。

現代人の価値観だと「この母親は決して許されない事をした」と判断されますが、異なる時代であれば「致し方ない選択だった」と判断されたかも知れません。

「生きる」という根源的な問題は「現代人の価値観だけでは軽々に判断出来ない」と僕は思っています。

 

⭐️⭐️

 

こう考える僕に同意する人は、たぶん、ほとんど居ないと思います。

 

分別がつく年齢の子に「しつけ」と称して暴力を加え、死なせてしまう親に僕は怒りを覚えますが、生後11ヶ月の赤ん坊を床に叩きつけて死なせてしまった母親に、僕は何故か、怒りは感じないのです。同情もしないけれど。

 

野生動物の社会で生存の為の「子殺し」はいくらでも確認されています。それは「善悪」の彼岸にある出来事です。

 

この件は、それに近い出来事のように、僕には思えます。

 

⭐️⭐️⭐️

 

では、また。

 

今回も最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 

Episode39~END~

 

To be continued

 

【追記】

「親殺し」「子殺し」はとても痛ましい出来事だと思いますが、僕は実際に「親を殺したい」と思ったことがありますし、あまりにも辛い育児にチラリとでも「この子を殺したい」と考えてしまう母親はたくさん居ると思います。だからこの母親が(特に育児中の親から)同情を集めているのだと思います。

ただし、実際に殺してしまったら、その罪に相当する罰は受けねばならないし、3年半の実刑は妥当だと、僕は思っています。

「残された赤ん坊が実親から離されるのは可哀想だ」という声もありますが、現代の乳児院や養護施設は、世間一般で思われているよりずっと環境はいいのです。少なくとも、うつ病の実母の元での余裕のない生育環境よりは「子供にとって」良い環境であることは間違いありません。そういう乳児院・養護施設の実態がよく知られていないから、この母親にしても限界状況になっているのに「施設に預けよう」と思い浮かばなかったんだろうし、世間も「親と赤ん坊が離ればなれになるのは可哀想だ、親元へ返せ」と考えてしまうんでしょうね。

母親はしっかり罰を受けて、罪を償って、病気の治療をしてから、子育てをリスタートした方がいい、と思います。

母親と残された子が将来幸せになれるかどうかですが、親鸞さんが「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言っているので、大丈夫です。

 

Episode38〜憎しみや怒りを抱いた相手に復讐は必要か?

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ハルです。

 

昨日の日曜は息子と笛吹川の土手に行って、ヨモギを摘んできて、草餅を作ってみました。

摘みたてのヨモギで作った出来立ての草餅は、今まで食べたどんな草餅より美味しくて、息子は7個も平らげました。

 

⭐️

 

数日前に、実家で同居している妹からFacebook経由でメッセージがありました。このブログが妹の目にとまり、「公の場で両親をこんな風に書くブログはやめて欲しい」という内容のメッセージでした。

(妹とのやりとりは、この出来事も含めて、別の回にまとめて書くつもりです。)

 

妹のメッセージを読んで以来、安定していたメンタルがまた下がってしまい、体調も最悪になりました。土曜の夜は、些細な事で妻と衝突して、妻を大いに傷つけてしまいました。

 

日曜の朝は、目覚めても起き上がれず、床の中で泣いている僕に、息子が「土手に行ってヨモギを摘みたい」と言ったので、無理して起き上がって外出して、ヨモギを摘んできて、息子と一緒に草餅を作り、家族で食べきれないほどたくさん出来たので、隣の一人暮らしのおばちゃんや妻の実家にもお裾分けして、夕方、朝から仕事だった妻が帰宅して、一緒に食べて、妻とのわだかまりも解けて、まあとりあえず、今回の嵐は幸運なことに一件落着したようです。

 

⭐️⭐️

 

僕のメンタルの浮き沈みの激しさは、妻と息子にも、大きなストレスになっています。

 

長年抑えていた「怒り」が、自分でもコントロール出来ないほど溢れ出す事があり、それは自分でも苦慮していますが、同居する妻や息子にしたら、たまったもんじゃないでしょう。

 

僕の本心を正直に言えば、両親に「復讐してやりたい」という気持ちが抑えられないくらいに大きくなっています。何度も自分の気持ちを訴えて、それでも、まったく受け入れない両親に、「それならあんたらから貰った暴力をそのまま返してやる!」と、同じ暴力で、復讐してやりたい

 

…こんな気持ちが沸き起こること自体、しばらく前までの僕は、自分で抑えこんでいました。親にそんな気持ちを持つ事に「罪悪感」というブレーキがかかっていたのです。

 

今の僕は「湧いてくる気持ちに蓋をしなくていい」と思っています。実際に行動を起こすかどうかは別として。

 

⭐️⭐️⭐️

 

子供を観察していると「復讐心」は、ごく自然に人間に備わっている本能だということが分かります。

子供は誰かに痛い目にあうと必ず「やりかえし(復讐)」をします。

今の大人は、子供の「報復合戦(ケンカ)」にただちに介入して「それはいけないことだ」と教え込みますが、大人にケンカを強制終了させられた子供の心の中では「本能として備わっている復讐心」がくすぶったまま、消えていないかもしれません。

 

「復讐心=悪」なのでしょうか? 

 

では何故人間の本能に復讐心が備わっているのだろう?

 

⭐️⭐️⭐️⭐️

 

シャリーアイスラム基本法)にはキサースという刑罰の定めがあります。

裁判官の監視の元、被害者が蒙った被害と同じものを加害者に与える、という刑罰です。これは元をただせば「目には目を」というハンムラビ法典から続く古典的な刑罰法です。

 

「目には目を、歯には歯を」という定めは、現代人には一見野蛮に見えるのですが、これは正確に言うと、「被害者が蒙った被害以上の報復をしてはならない」という、報復の上限を定めた合理的な法律なのです。

 

復讐心は人間に備わっている本能です。それを認めた上で、「ここまでの復讐は許可するが、それ以上の復讐をすると、報復の連鎖が起き、双方が破滅する」ことを防ぐために「目には目を」の定めがあるわけです。

 

この刑罰法ひとつとっても「イスラム教徒には心の病が少ない」という理由が分かるのではないでしょうか。

 

誰かから不当な暴力を受けた人間が、復讐心を満たされず、加害者が反省もせずにのうのうと生きているのを見たら、心が病んでしまうのは当然ではないかと思うのです。

 

にもかかわらず、私たちは、復讐は許されない現代社で暮らしています。

 

法律的にも許されていないし、親や社会の教育によって、子供の頃から「復讐=悪」と「復讐心を抱いてもいけない」と教え込まれています。

 

昨今の保育園、幼稚園、小学校でよく見かける光景ですが、子供がケンカ(報復合戦)を始めるとすぐに先生や親が介入して「“ごめんね”って言いなさい」「“いいよ”って言いなさい」と暴力沙汰を(表面的に)おさめようとします。けどその解決方法は、子供の心の中では充分納得されているんでしょうか?「あの子に酷い目にあったのに、なんで…」という気持ちが、くすぶってはいないでしょうか?

 

「復讐を認めろ」と言っているんじゃないんです。復讐心が沸き起こってくる事自体は良い悪いもなく人間の自然な心理です。その心理を抑えこんでいると、人間の心は病んでゆくのです。

 

それは我が身をもって実感しています。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

僕はかつて父親に「謝らなければ殺してやる」と書いた手紙を送ったことがあります。それはEpisode15で書きました、

【Episode15】

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/02/18/044929

 

こんな手紙を親に送りつけた事の賛否はあるでしょうけれど、その手紙を送った直後、僕はどんな気持ちになったかと言うと、「今まで味わったことがないほど晴れやかな気持ち」になったのです。

嘘でも何でもなく、本当にこんな気持ちになり、我ながら我が心に驚きました。

 

父が僕にどんなに理不尽な暴力を振るっても、母は僕に「やりかえす」ことを厳に禁じました。その上、暴力を受けても「何とも思わない大人になれ」と教え込んできたのです。

 

父に「殺してやる」という手紙を送りつけたことは物凄い暴力であるに違いありません。

僕は生まれて初めて、父に物凄い暴力を振るって、息子の暴力に深いダメージを受けている父と母を確認すると、僕の心に思いがけないほどの「晴れやかな気持ち」が沸き起こってきたこと。これはまぎれもない事実です。

 

おそらく、この「晴れやかな気持ち」をもっともっと味わいたいがために、人間は「過剰な報復」をしてしまい、やがて取り返しがつかないほどの報復合戦、…個人レベルでは殺人事件、国家レベルでは戦争、という悲劇が起こるのではないかと思っています。

 

僕はもうこれ以上の報復をするつもりはありません。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

さて今回は、この辺で終わりにします。

これ以上書いていると、また心が荒れてきそうな気がしますからね。(苦笑)

 

最後までお読み下さり、ありがとうございます。

 

Episode37~END~

 

To be continued

 

 

 

Episode37〜精神科と心理カウンセリングと宗教は目指すところが同じ。入ってはいけない宗教があるように要注意の心理カウンセラーもある?

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ハルです。

 

一昨日描きあげた絵は『Happiness Pinkie Ring(幸せの小指の指輪)』とすることにしました。

 

言い伝えによると「幸福は右手の小指から入り、左手の小指から出てゆく」とのこと。「右手小指の指輪は幸福を招き、左手小指の指輪は幸福が逃げるのを防ぐ」そうです。

 

僕が描いた絵では、女性の両手の小指の指輪から、星か雪の結晶のようなものが出てきています。この女性は人間ではなく女神なので、両手小指から幸福が溢れ出しているのですね。

 

面映ゆい目標だけど、「ハルの絵を持っていると幸せになれる」という評判がたつような絵描きになりたい。…

 

…それを目標に絵を描いてゆくのは、悪くないモチベーションの持ち方だ。…

 

⭐️

 

さて、

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/02/24/154946

👆Episode21で 大川隆法氏の長男、宏洋氏について書きました。

その後、精神科YouTuberのSidowさんのチャンネルにアップされた続編動画が、とても面白い切り口だったので紹介します。

 

神の子 宏洋に聞く!精神科と宗教の共通点と入ってはいけない宗教
https://m.youtube.com/watch?v=HiPULzX8Qoo

 

大昔は、天変地異や病気を防ぐのも宗教の役割でしたが、科学が発達するにつれ、相対的に宗教の役割も減っていきました。しかし現代でも「受け入れがたい辛い出来事」はあり、その「辛いときのよりどころ」として宗教が必要とされ、現代では、精神科も宗教と重なる役割を果たしているとのこと。

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精神科に加えて、心理カウンセリングも、同じ役割を果たしている、と言えます。

 

上の動画では「入ってはいけない宗教」について宏洋さんがいくつか例をあげています。

例のひとつとして「お金をとる宗教はヤバい」と言っています。

 

精神科医は医療行為をするので、治療費をとりますが、精神科医になる為には国家試験があります。試験を通らなければ精神科医として開業できません。患者は「免許をとって精神科医になったのだからお金を払うに値するスキルを持っているのだろう」と思っているから疑問もなくお金を払っています。

 

心理カウンセラーになる為の国家試験はありませんが、民間の協会の資格試験を通らなければ、プロのカウンセラーとして開業できません。民間と言えどカウンセリングのノウハウはそれなりに蓄積されているので、その資格試験を通れば、ある一定以上のスキルがあると見なされ、クライアントはそのスキルにお金を払うわけです。

 

宗教の場合ですが、伝統宗教ならば、やはり「資格試験」に相当するものがあります。プロの僧侶になる為には修行道場で修行を積み「僧籍」を得なければ、お布施を頂くプロのお坊さんとして活動できません。

 

心の問題にお金を払うのは、病気を治療してもらって治療費を払うのと同じことだから、必ずしも「お金をとる=悪」というわけじゃないのです。

 

上で宏洋さんが言っているのは伝統宗教以外の、新興宗教についてです。

仏教寺院やキリスト教会以外の新興宗教は数々存在して、信者からお布施と称してお金をとっているけど、その活動を認めているのは誰か? 

 

「宗教法人法」というのがあって「監督官庁」が許認可を与えている(らしいです。詳しいことは僕も分かりません。)

「指導者」が居て「教義(教え)」があって「信者」が居て「信仰活動」が行われて、監督官庁が「これは宗教だな」と見なせば、宗教法人として認められる(らしいです)。

 

監督官庁が警戒しているのは、宗教法人を隠れ蓑にして脱税のような違法行為をしていないか、ということであって、「信者を騙してお金を巻き上げているかいないか」までは判断できません。役所は個人の心の中にまで入り込めないから「騙されているのか」「信じているのか」の違いは外からは分からないのです。

 

僕の女房は産業カウンセラーの資格その他様々な資格を取っているけど、カウンセラーの資格試験といっても様々な民間協会が乱立していていて、中には怪しげなものがあるのも事実です。

 

はっきり言って、悪徳宗教法人があるのと同じで、悪徳カウンセラーも実在していて、クライアントから不当にお金を巻き上げているカウンセラーも居ます。

 

その見分けは、どこでつけたらいいんでしょうか。

 

⭐️⭐️

 

僕は今現在、井上秀人さんというカウンセラーを信頼して、半年にわたるセッションを受け始めていますが、正直に言って、この人が本当にカウンセラーとしてホンモノなのか、ニセモノなのか、今のところは分からない、としか言えません。

 

半年後に、僕が心の底から「親の呪縛から自由になった」と実感できれば、井上さんがホンモノと証明できるでしょうけど、それでも「ハルという個人にとってホンモノ」というだけです。

 

かほどに、「このカウンセラーがホンモノ」ということを証明するのは、難しい。

 

ただ僕は絵描きなので、自分の心の中を絵によって表現するということが出来ます。僕の心の変化は、僕が描いた絵で分かります。絵を見ると、少しずつ変化はしてきていると思う。

 

井上さんのセッションの特徴は「自分の心の内を文章で書く」という点にあります。紙に自分の手で実際に文字を書いてゆくのです。その量もハンパなく多い。これを半年続けるとしたら…

 

…これがどんな変化をもたらすのか、まだセッションを受け始めたばかりの私たち(現在コミュニティの人数は30人ほど)には、誰にも分かりません。

 

明日、コミュニティの仲間と、東京某所で初顔合わせです。

Episode0では「戦いが始まる前」とタイトルをつけましたが、明日から、本格的に「戦い」が始まることになります。

 

⭐️⭐️⭐️

 

では、今日はこの辺りで。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 

Episode37~END~

 

To be continued

 

 

 

Episode36〜幸福を感じる時間を積み重ねたい

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ハルです。

 

昨日、Episode30で途中経過の写真を載せた絵👆が完成しました。

 

「自分と自分の家族を幸福にしたい」ということを第一に考えて、描いています。  

 

⭐️

 

今日は家族三人で日帰り上京。

東京ヤクルトスワローズvs広島カープのオープン戦を観戦しました。

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試合はホームラン7本が出る大激戦、7×7のドロー。9回に4点差を追いつかれて、スワローズファンの女房はちょっとガッカリ。息子と僕は白熱した試合に大満足。

 

息子は小遣いでクリアファイルとボールのグッズを買って、帰りのバスの中でいじくり回して、「楽しい一日」の余韻に浸っています。

 

幸福な時間を積み重ねるために家族がある。

 

⭐️⭐️

 

それでは、また。

 

今日はこれだけですが、読んでいただいてありがとうございます。

 

Episode36~END~

 

To be continued

 

Episode35〜伝説の映画監督「伊藤智生」、AV界の巨匠「TOHJIRO」監督を知っていますか?

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ハルです。

 

今回も自作解説から始めます。

👆これは今まで掲載していた作品とは、ガラリと趣向の違う作品です。題名は『誰にも縛られないために私は私を自分で縛る』。A3ぐらいのケント紙にペンで描いた作品です。

 

一年ほど前に描いた作品ですが、今見ると、これを書いた自分は「病んでるな」と思います。正確に言うと「病みながら、そういう自分を客観視しようとしている」という作品です。

 

この作品を描いた頃、ある映画監督の方と知り合いました。その方の名は伊藤智生

ものひとつの作家名はTOHJIROです。

男の方なら「あの人か」と思いあたるかもしれません。僕の駄文で説明するより、下のリンク先を見ていただいた方が早いと思います。

【AVの巨匠TOHJIRO(伊藤智生) 伝説の長編処女作 『ゴンドラ』 30年ぶりの再上映】

https://www.google.co.jp/amp/cinefil.tokyo/_amp/_ct/17024382

 

この『ゴンドラ』という映画をポレポレ東中野という小さな映画館で観て、とても感動して、長文レビューをFacebookに載せたところ、伊藤監督の目にとまり、監督自身そのレビューをとても喜んでくれて、それからお付き合いが始まりました。

 

お会いしてみると、とても純粋で歳をまったく感じさせない程若々しく、初々しく、誠実で紳士的な作家でした。

作品の『ゴンドラ』は不思議な静謐さとホリックな空気感に満ちた作品ですが、AV監督TOHJIRO監督として制作するAV作品は、いわゆるハードSMというジャンルの、超マニアックな作品。

 

僕は伊藤智生監督に出会う前から、TOHJIRO監督のAV作品を知っていました。その趣味があるなしに関わらず、とにかく強烈な内容なので、一度観たら忘れられないAV作品です。

 

劇場映画作品とAV作品のギャップがあまりに大きいので「同一人物か」と一瞬疑ってしまうんですが、ご本人の中では、深い部分で映画とAVは繋がっています。 

 

それが僕にはよく分かる。

 

ーーここも説明が難しいところです。

 

TOHJIRO監督のAV作品のリンクをここに貼るわけにはいかないので、言葉で説明するしかないんですが(言葉で説明するのも少々はばかれるけど)、要するに美しい女優さんを縛ったり、吊るしたり、鞭で叩いたり、◯◯したり、□□させたり、…という、女性の人格を踏みにじってるかと思うくらい、フェミニストが観たら卒倒するような物凄いSM作品を撮っているのです。

 

ところが、この業界のトップ女優がこぞってTOHJIRO監督の元に「撮って欲しい」と列をなし、リスペクトして、絶大に信頼されている。

 

TOHJIRO監督がいつか言っていましたが、「俺は医者じゃないのに、どういうわけか、病みを抱えた女優ばかり俺のところにやってくる」との事。

 

女優を痛めつけるのがウリのSM作品は数々ありますが、TOHJIRO監督のAV作品を観ると、激しい責めを受けた女優さんが、終わりの方では、憑き物が落ちたような独特の表情に変わっています。そのうえ、何とも言えない、素朴で清らかな「美しさ」さえ感じる。その表情は「演技」ではないように見えるのです。

 

伊藤智生(TOHJIRO)監督のお母様は、監督がまだ子どもの頃心を病んで、その様子を、監督はつぶさに記憶しているそうです。(そのお母様をモデルにした映画を次回作で制作するそうです)。

 

心のどこかに病みを抱えた若い女性がTOHJIRO監督の元を訪れ、自ら望んで激しい責め苦を受け、絶叫し、何かを吐き出し、生まれ変わったような表情に変わる。

 

そういう人間の不可思議さを、言葉で説明するのはとても難しい。

 

言葉での説明は難しいのだけれど、僕は、これは単純な、人間としてごく当たり前な事だと思うんです。

 

表面だけを見てると分かりません。でも人間の心の側から見ると、すぐに分かることです。

 

厳しい修行を積むお坊さんは、何故好きこのんで、みずから苦しい目に会おうとするのか。

 

その修行を経た後は「生まれ変わった」心境にたどり着く。生まれ変わりたいから激しい責め苦を自分に課すんです。苦しみを経ないと人間は成長しない。それが人間の変わらない原理です。

 

⭐️

 

ここで思い浮かべるのは、僕の子どもの頃の記憶です。

何度も書きましたが、僕は父に理不尽な暴力を振るわれ、泣いていた僕に、母は「お前の方が大人になって乗り越えろ」と言いました。

 

父も母もこの出来事を「息子を成長させる為に必要な試練を与えた」と思っています。そうだと、僕にはっきり言いもしました。

ある年齢になるまで、僕は、この親の理屈をそのまま飲み込んで、受け入れていました。

 

でも今では、これが「親の汚い嘘」だと、はっきり分かります。

 

「自分が望みもしないのに一方的に押し付けられる苦しみ」自分が望んで受け入れる苦しみ」は、まったく違うのです。

 

「苦しみ」を「快楽」に置き換えてもいい。

 

「自分が望みもしないのに一方的に押し付けられる快楽」「自分が望んで受け入れる快楽」は、まったく違う。

 

子供が望みもしないのに、親側の一方的な理屈で、子供に「苦しみ」や「快楽」を与える親は毒親に他なりません。

 

「うちは子供に何不自由なく与えている」と、子供の本当の望みを無視して、玩具やお菓子やお金を与えている親は、子供に暴力を振るう親と同じです。知らず知らず子供の心を壊しています。

 

⭐️⭐️

 

セックスは快楽に違いないけれど、望まない女性にセックスを強要するのはレイプです。

 

望むセックスをすると人間の心は満たされますが、望まないセックスを強制されると人間の心は壊れるのです。

 

望まないものを親の一方的な都合で与え続けられた子供の心は、徐々に壊されてゆきます。

 

「試練を与えてやらねばならない」と勝手に考えて子供に試練を与える親は、「セックスは快楽なんだからセックスしてやるよ」と女性をレイプする勝手な男と変わらないんです。

 

レイプされた女性の心が深く傷ついているように、親の一方的な試練を与え続けられた子供の心は深く傷ついています。

 

⭐️⭐️⭐️

 

大人になれば、「自分の成長に必要な試練」は、自分から望んで受けるようになるんです。

 

TOHJIRO監督の元に飛び込んで、激しい責め苦を受ける女優は、それまでに「自分が望まない責め苦」ばかり受けて心が病んでいるんです。

 

「自ら望んで受ける責め苦」は自分を成長させる。それは誰からも教えられなくても、人間はしかるべき時に、自分に必要な責め苦を自分に課して、勝手に成長してゆくんです。

 

TOHJIRO監督の激しい撮影の後、女優たちが独特の晴れやかな表情をしているのは、性倒錯でも何でもなく、人間の原理にかなった、人間らしい行動をしたからです。

 

親が自分勝手な理屈で、子供に試練や責め苦を与えちゃいけないんです。絶対に。

 

それは女性をレイプするのと同じくらいに罪深い事をしているんです。

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それでは、また。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 

Episode35~END~

To be continued

 


【追記】

4月13日(土)~4月19日(金)

名女優佐々木すみ江さんを偲んでの『ゴンドラ』追悼上映会ポレポレ東中野で開催されます! お時間のある方は是非!

〈劇場WEB〉

https://www.mmjp.or.jp/pole2/

連日開映14時40分

ゲストを招いてのアフタートークもあります。

13日(土)  飯田譲治(映画監督)

14日(日)  朝岡実嶺(女優)

15日(月)今関あきよし(映画監督)

16日(火)  山田勝仁(演劇評論家

17日(水)オーイシマサヨシ(アーティスト) 

              加藤純一(YouTuber)

18日(木)   品田誠(俳優)

19日(金)  木内みどり(女優)

Episode34〜寅さん映画、アッバス・キアロスタミ、小津安二郎、サタジット・レイ、人間を肯定するステキな映画たち

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ハルです。

 

昨日に引き続いて、自作の解説から始めます。

上の画像は『真夜中の惑星ゲーム』という作品です。

怪しげな異界の魔物たちが何やらボードゲームに興じていますが、ゲームの駒やチップに使用されているのは、なんと天体の惑星です。

夜空の星々はすべて北極星を中心に回転していますが、水星、金星、火星、木星土星の五つの星だけは、他の天体の運行と関係なく、夜空を彷徨うように移動しています。その為「惑星」と呼ばれ、太古の昔、惑星は不可思議な大きな力によって動かされている、と信じられていました。

そういう話を、空想を膨らませて描いた絵です。

 

⭐️

 

一昨日の日曜の午後、妻と一緒に近くの市民会館へ、教育評論家の親野智可等さんの講演を聞きに行きました。

 

「叱らない」子育て論を普及されている元小学校教諭の親野さんのお話は、まるで漫談のように面白く、一時間半があっという間でした。

 

近ごろよく聞く「叱らない子育て」ですが、現役で子育てしている親からすると「叱らない」はまず無理です。

 

でも「叱らない」を提唱している方のお話を実際に聞いてみると、決して「叱ってはいけない」と言っているのでなく、「叱らなくてもいい」と言っているのです。

 

子どもは、叱らなければならない時もあるけれど(実際は親が思ってるほど多くない)、叱らなくてもいい時に叱ることが習慣づいてしまうと、子にとっても親とっても悪影響しかないということなのです。

 

「叱る」よりも、「褒める」「好きだよと言ってあげる」をたっぷりしてあげると、自己肯定感の土台がしっかり固まる。自己肯定感を持っている子どもは、何をするにも自信を持って行動し、失敗してもすぐ立ち直り、結果的に、自然に叱らなくてもいい人間に成長してゆくのです。

 

土台がしっかり固まっていない幼いうちに、叱ってばかりだと、自己肯定感はいつまでも持てず、自己肯定感のない子は自立心が育たず、結果的に、叱らずにはいられない子になってしまいます。

 

⭐️⭐️

 

話はガラッと変わりますが、

僕は映画『男はつらいよ』の大ファンです。48作すべて観ています。 

 

説明の必要がないほどの国民映画で、映画館やDVDで観たことがない人も、内容だけは、誰でも知っているでしょう。

 

僕は、渥美清演じる車寅次郎のこんな台詞が、記憶するくらいに印象に残っています。

 

親父はいつも俺にこう言ったもんさ、『おめえは俺が酔っ払った時に作った子だ、だからこんなバカに生まれたんだ』とね。俺ぁ悔しかったねぇ、真面目に作ってもらいたかったよ。好きでこんなバカに生まれたかったわけじゃねぇ。ガキの時分からバカだ出来そこないだと言われ続けて、ある日親父に死ぬほど殴られて、プイッと家を出て、それっきり。以来フーテン暮らしさ

 

この父親は今で言う完全な毒親でありますが、寅次郎が早々に家出したのは…まあ…賢明な選択だったと言えるでしょうね。

こんな親に育てられて、寅次郎は自己肯定感の低い人間かというと、そうも見えないのです。コンプレックスの強さは伺えますが、どこに行っても物おじせずに、やたら行動力だけはある。数々の失敗(失恋)にへこたれず、すぐ立ち直る。

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  この人間的したたかさ(言い換えると人並み外れた自己肯定感)はどこから来るのか。

 

寅次郎が失敗をしでかして、「とらや」の家族が頭をかかえるたびに、柴又題経寺の御前様(笠智衆)が、よくこんな台詞を言うのです。

 

あの男(寅)は愚かな男だが、仏に愛されておるのですよ。仏は愚かな人間が大好きなのです

 

寅さん映画の世界観はこんな具合です。

寅はバカな男で数々の失敗を繰り返すけど、最終的には「とらや」の家族は寅を温かく受け入れている。

その「とらや」も含めた柴又のコミュニティ全体を、題経寺の御前様が見守っている。

 

寅の行動を注意深く見ていると、とても信心深い男だと言うことが分かります。いつも帝釈天の御守りを首から下げているし、旅の先々で、神社仏閣へのお参りと賽銭を欠かさない。

 

何故この映画がギネス記録になる程長い間続いたのか。何故日本人はこの映画を愛してやまないのか。

 

僕は寅さん映画の世界観そのものに、その魅力があるような気がしています。

 

⭐️⭐️⭐️

 

このブログではたびたびイスラムについて述べています。

前回はイスラム教徒でもないのに、イスラム絶賛の記事を書いてしまいました。

Episode33〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/17/082906

 

 

僕はかつて、イランのアッバス・キアロスタミ監督の映画を夢中になって観ていたことがあります。

 

アッバス・キアロスタミ作『友だちのうちはどこ?』トレーラー

https://m.youtube.com/watch?v=vWTL9AFrxUo

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これは、友だちのノートを間違って持ち帰ってきた子どもがノートを返しに行く、というだけの映画ですが、この作品にはイランのごく普通の庶民、子どもたちの姿が(ほとんど職業俳優ではなく素人だそうです)、ありのままに、素朴に描かれています。

 

日本語字幕はついていないんですが、フルバージョンの動画もあります👇。これを見ると、イランの庶民生活の匂いがよく分かります。

https://m.youtube.com/watch?v=yE1GFeiZn_4

 

イラン映画ですから、登場人物は当然みんなイスラム教徒です。

でも映画には、特別強く宗教色が押し出されているわけじゃない。

 

イランの庶民は、女の人はマメによく働いていますが、男の人たちは働いてるんだか働いてないんだかよく分からない。ある意味ダラけていて、ノンビリしていて、でもみんな不思議と充足して生きているように見えます。

 

僕がこの映画に惹きつけられるのは、俳優の演技とか、風俗とか、そういう部分ではなく(それも勿論素晴らしいのだけれど)、映画全体を包み込んでいる、この世界観です。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️

 

アッバス・キアロスタミ監督は、熱烈な小津安二郎ファンでもあります。

 

『友だちのうちはどこ?』は小津安二郎の初期シリーズ『突貫小僧』に大きな影響を受けているようですね。これも一見にしかず、見比べてみるとよく分かります。

小津安二郎作『突貫小僧』

https://m.youtube.com/watch?v=gshM6WBr1nU

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男はつらいよ』の山田洋次監督は、小津を育んだ松竹蒲田風の正統な継承者だし、キアロスタミはその小津に多大な影響を受けている。

 

…と映画史の「文脈」で、寅さん映画、アッバス・キアロスタミ小津安二郎共通性を、一応説明はできるんですが、僕は、これらの映画に通底する世界観は、もっと大きな説明が必要ではないかと思うのです。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

ここでもうひとつ、僕の大好きな映画を紹介します。インド古典映画の傑作『大地のうた』です。

サタジット・レイ作『大地のうた』フルバージョン(日本語字幕はついていませんが、1:10:40以降の蒸気機関車のシーンが素晴らしい)

https://www.dailymotion.com/video/x6j4i9n

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これも、名もない庶民の生活が素朴に描かれている、それだけの映画ですが、どうしてこんなにも魅力に溢れているのか。

何か大きなものが、この映画の世界全体を包み込んでいるように感じます。  

 

 

寅さん映画、アッバス・キアロスタミ小津安二郎、サタジット・レイ、これらの映画に通底する「何か」。

 

その何かを、といってもいいし、といってもいいんですが、その「大きなもの」が世界全体を包み込んでいて、登場人物一人ひとりをも、包み込んでいる。

 

登場人物は物語の中で失敗したり、挫けたり、不幸に見舞われたりして、倒れることもあるけれど、力強く、また立ち上がる。

 

彼らは「自己肯定感」など意識することもありません。「大きなもの(=神あるいは仏)」に最初から肯定されているから、包み込まれているから、どんなことがあっても生きていける。立ち上がれる。

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これらの映画に共通して感じる「大きなもの」は、映画の製作者も意識して作り上げているわけではないと思うんですよ。たぶん、自然に滲み出ているものです。

 

これは、CG全盛の現代の映画には、決して感じられないものです。

 

この世界の一人ひとりを包み込んで、全肯定してくれる「大きなもの」。

 

それがあるから、人間は絶望せずに生きていけるんじゃないでしょうか。たとえ絶望しても、また立ち上がることが出来るんじゃないでしょうか。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

では、また。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

Episode34~END~

 

To be continued