Episode3〜脱宗教団体記:「仲間と一緒に」「書く」ことは脱洗脳の最強のメソッド
ども、
ハルです。
僕は、3日前にブログ開設したばかりの初心者なんですが、ブログにはアクセス解析という機能がついているんですね。
ここを見ると閲覧数(PV)が確認できます。
ブロガーやユーチューバーが、よく「祝!◯◯万PV達成!」とかやってる、アノ数字ですね。
正直僕はブロガーにもチューバーにもなる気はないので、そんなに高望みはしてないんですが、
もし、3日でPVが2〜3人だったら…
…かなりヘコむだろうなぁ、と。(笑)
モチベーションダダ下がり、文字通り三日坊主になっちゃうかも。。
などとビクついていたのですが、
昨夜、「アクセス解析」ボタンをポチッと押してみると、
え?…こんなに?!
え〜マジマジマジ!!🤣
おそるおそるの開設でしたが、ここ、ご覧になっている皆さま!ありがとうございます!!🙏🙏🙏
三日坊主にならなくて、よかったぁ。。
…いえいえ、足跡を残して頂かなくてもいいんです!閲覧して頂くだけでいいんです!
僕も毒親関連サイトをずいぶん見ましたが、サイトの性質上、足跡を残すのは、正直ためらってしまうものです、分かります。
でもでも、
「おっしゃっっ!!頑張って書き続けたるわい!!!」
とテンションアゲアゲになったのは、事実です。閲覧してくださっている皆さま、本当に、ありがとうございますっ❗️😊
さて、
今回は、僕がかつて、ある宗教団体に所属していて、そこから、いかにして脱会することが出来たか、というお話です。
僕が生まれる前から、両親は、その仏教系宗教団体に入信していて、僕は物心つく前から入信させられていました。
その時の体験を事細かに書くのは、今は控えますが、
…僕はその教団の信仰活動が嫌で嫌でたまりませんでした。けれど「嫌だ」と口にすることは出来ません。
「信心を怠ると病気になる」
「教団を脱会した者は地獄におちる」
教団の中では、そんなことがよく言われていたものです。幼い頃から、そんなことを繰り返し聞かされていたら、…
「嫌だ」という本心を隠して、というより「嫌だ」とも思わないようにして、教団の活動に参加し続けていました。時には「活動に喜びを感じている」というフリをしました。フリをして本心に蓋をしていたのです。
今から思えば、暗黒の日々です。
本当は、嫌で嫌でたまらないのに、その本心をひた隠す。
いつのまにか、それが習性になっていました。
そんなことが長続きするわけがありません。
20代後半から、僕は、はっきりとその教団から離れることを決心しました。
けれど、洗脳というやつは恐ろしいものなんですね。
「教団から離れたら罰が当たるかもしれない」
幼い頃から言い聞かされていた事がガッチリと肌身に染み込んでいます。
体全体が教団に拒絶反応を起こしている、けれど「罰が当たるかもしれない」という恐れから、どうしても離れることが出来ない。我が身が引き裂かれる苦痛が長い間続きました。
転機が訪れたのは、20数年前、インターネットを利用するようになってからです。
インターネットがない時代は、脱会信者は孤立するしかありませんでした。
「脱会した者は地獄に落ちて、不幸になる」と散々聞かされていますから、そもそも脱会すること自体考えられません。
教団活動から距離を置きながらも、完全に縁を切ったわけでもない、という中途半端な状態が長く続きました。
自分の土台を失ったような底知れない不安な気持ちが長いあいだ続きました。
そんな時、インターネットで、脱会信者が集まって発言している掲示板を見つけたのです。
そこでは、教団への不満や、自分の心の内を率直に書き込むことが出来ました。
匿名掲示板なので、本名も素性も明かさずに、誰にも言えなかった思いの丈が吐き出せるのです。それは新鮮な体験でした。
しかも、肉声で言うのでなく、文字にして書き込む。書いたものを自分の眼で確かめる。それは投稿した後も残り続けます。
自分の書いたものを自分で読む。
その行為を繰り返し繰り返し続けました。
それを続けてゆくうちに「俺はこんな風に感じていたんだ。こんなことを考えていたんだ」ということが可視化されます。自分を知るとはそういうことです。(僕は若い頃よく一人旅をしましたが「自分探しの旅」なんかで自分が何者かは全然分かりませんでしたねー、ははは。)
この掲示板サイトは自然発生的に出来たコミュニティなので、誹謗中傷する者も紛れ込んできて炎上することもありましたが、そこに集まっている人は、自分の本心をさらけ出し、真摯に自分に向き合おうとする人が大半でした。
そんな事が続くと、掲示板の常連の間に仲間意識が芽生えてきて、「オフ会で会ってみよう」という事にもなりました。
勉強会のような事をしたり、その教団信者なら訪れることはない寺院を巡ったりしました。今思うと馬鹿馬鹿しいのですが、それ以前は、宗派の違う寺院を訪れたり、異教の経典を読むことすら「罰が当たる」と思い、抵抗があったのです。
けれどそういう思い込みがなくなり、聖書や様々な仏教経典を読むようになり、視野がそれ以前とは比べ物にならないほど広がりました。何千年も伝えられている教典には、人びとの心に安寧をもたらす深い智慧が詰まっているものです。そういう読書を通して、僕の気持ちは次第に落ちついてきました。
ここで本当に貴重なものを学んだと思います。
「自分の本心をひた隠し、自分で自分の本心を見ようとしない」
という子どもだった僕が、
「自分はどんな人間なのか、自分は何を考え、感じているのか、それをとことん掘り下げてゆく」
という事が出来るようになりました。
書くということ。
仲間と一緒に考えるということ。
それが脱洗脳に本当に役立ちました。
もうひとつ、大切な事を書きます。
脱洗脳の過程では、激しい怒りが沸き起こってきます。
掲示板への書き込みによって、長年、表に出すことが出来なかった感情が一気に吹き出してきたのでしょうね。教団への不満、怒り、恨みが後から後からとめどなく噴出して、自分でも戸惑うほどでした。
当初僕はその気持ちも率直に書いていたのですが、同じ掲示板に参加していたある人の書き込みを見るうちに「これは行き過ぎるとマズいことになるぞ」と思い始めました。
彼の、教団へ対する怒り、恨みは誰よりも強く、激しく、その書き込みはほとんど呪いの言葉でした。教団指導者の死や、教団の崩壊を望み、罵詈雑言をそのまま書きつける。読んでいて誰もが不愉快になるので諌めると、今度は諌めた人の誹謗を始めて止まらなくなる。
次第にその掲示板には人が居なくなり、しまいには彼以外誰も居なくなったようです。僕もその掲示板から離れました。
怒りの感情を率直に表現するのはある程度はいいと思うのです。感情を率直に吐き出すことによって心のわだかまりがとれてゆく、ということは僕も経験しています。
けれど、怒りの感情を吐き出す快感に酔いしれ、怒りに飲み込まれ、自分の怒りに自分が縛られ、そこから逃れられなくなるのは不幸です。
彼はある意味、よい反面教師でもありました。
こうなってはいけない、という。
現在の僕は、この教団への怒り・恨みは一切ありません。ふたたび帰依する気はまったくありませんが、教団で信心を続けている信者は幸福になって欲しいと素直に思っています。
教団の呪縛から離れ、怒りの感情を手放したので、もうこの教団によって苦しむ事はない、と断言できます。この教団からほんとうに脱することが出来て、自由になった、と思っています。
ーー以上が「某宗教団体からの脱洗脳記」です。
実を言うと、ここまで書いた話には省略している部分があって、30歳代後半に、ある禅寺に通った経験も大きいのですが、それを書き始めると相当長くなるので、その件はまたの機会にしたいと思います。
そうそう、「ハル」という名前は、かの掲示板で使っていたハンドルネームです。この名前で今度は「脱毒親」に取り組もうというわけです。
では、長くなりましたので、今日はこのあたりで。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
Episode3〜END〜
To be continued