Episode5〜千葉県野田市の10歳の女の子と、10歳だった頃の僕
ども、
ハルです。
千葉県野田市で小学4年生の女の子が、父親の暴力で亡くなる事件がありました。
この件に触れることはためらってましたが、ここ最近の報道で、学校、教育委員会、児童相談所に非難が沸き起こっているようです。
尾木ママはブログで沸騰していますね。
https://ameblo.jp/oginaoki/entry-12438162194.html
https://www.google.co.jp/amp/s/grapee.jp/627857/amp
とても悲しい事件です。
でも僕は尾木ママみたいに、
怒りの感情にはなれません。
学校や教育委員会、児相は何やってるんだ!
と非難する気にもなれません。
僕が子どもの頃、
父の暴力は日常茶飯事でした。
僕が10歳ぐらいの頃、理由はいまだによく思い出せないのですが(たぶん虫の居どころが悪かったのでしょう)、僕は父に髪の毛を引っ掴まれて、頭をガラス戸に思いっきり叩きつけられました。ガラスは粉々に砕けました。
僕はあまりの衝撃に泣き続けていました。
その僕に、母はこう言ったのです。
「お父さんはああいう人だからしようがない。お前が大人になって、乗り越えなさい」
父の暴力で打ちのめされていた僕の心に、この母の言葉が真っ黒な毒のように広がっていったことを、今でもまざまざと思い出します。
父が逆上して暴れた時は、いかに理由が理不尽であっても、子どもの方が大人になって逆らわないことが我が家の暗黙の家訓でした。逆らったり、抵抗したりすると、大人じゃないということで、逆に、非難されます。
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野田市の女の子は、学校のアンケート用紙に、「お父さんから暴力を受けています」と書いていたそうですが、その後「お父さんに叩かれたというのは嘘です。学校の先生に聞かれて思わず言ってしまいました」と書いたそうです。
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現在父は80を超えていますが暴力は続いています。さすがに腕力による暴力はなくなりましたが、いったん逆上すると気狂いのような暴言が何時間も止まりません。
僕は15年前に東京の実家を出て、地方に移り住み、そこで所帯を持ちました。
ここ2年ほど実家には帰っていません。
2年前の正月、女房と息子を連れて帰郷した際に修羅場が始まり、それ以来、僕は自分の家族を守る為に両親とは絶縁することにしました。
そんな父に、母は離れずに暮らしているし、僕の二つ歳下の妹は結婚せずに両親と暮らしています。
僕には、一緒に暮らし続ける神経が、理解できないのだけれど。
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野田市の女の子の母親も、暴力を受けていたそうです。堪えかねて一度離婚したそうですが、すぐに復縁しています。母親の弁解によれば「娘への暴力を止めてと言ったけれど、聞き入れてもらえなかった」とのこと。
その弁解は本当だろうか。
まあどっちでもいい。
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我が家では、僕の母は父に「子どもに暴力を振るうのはやめて」と言ったことは一度たりともありませんでした。
父が荒れると、とにかく、嵐が過ぎ去るのを待つように、何も抵抗せずに堪え忍ぶしかありませんでした。
母は子どもたちに、そうするよう厳命していましたから。
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10歳の女の子は、息をひきとる刹那、なにを思ったのでしょうか。
父の暴力は堪え忍ぶべき試練だ。
母が救いに来ないのも試練だ。
わたしは堪えなければならない、堪えなければならない。…
僕はその子のそばに行って、こう言ってあげたかった。
堪えなくていいんだ。
堪え忍んじゃいけないんだ。
「苦しい」「痛い」「やめて」「たすけて」と言っていいんだ。
お父さんもお母さんも聞き入れてくれないなら、学校の先生に、ずっとずっと、しつこくしつこく、なんどもなんども、大人がうんざり顔をしても、食い下がって、言い続けていいんだ。
堪え忍ぶことは大人じゃない。
君は子どもなんだ。
人間なんだ。
痛くて苦しいときに、ちゃんと「痛い!苦しい!やめて!たすけて!」と言うのが人間なんだ。
でも、10歳の僕は、それが言えなかった。
言えなかった。
10歳の僕が言えなかったことを、52歳の僕が、やっと今になって、言い始めています。
今日は、ちょっと、感情的になってしまっているので、この辺で、終わりにします。
ここまで拙文をお読みくださり、ありがとうございます。
Episode5〜END〜
To be continued