Episode31〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②
ハルです。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052
前回のEpisode30👆では、アートの世界でよく言われている「文脈」について書きました。
今回はその続きを書いてみます。
僕はアートと同じくらいに文学に傾倒しています。
文学作品は(当然のことながら)「文脈」によって成り立っていますね。
僕は、30代の頃、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み、人生観が根底から変わる衝撃を覚えました。
ドストエフスキー文学が書かれた帝政末期のロシアは、キリスト教会の権威が揺らぎ、無神論者が跋扈を始めた時代でした。
そんな時代、ドストエフスキーが訴えようとしたことは「人間は信仰から離れて、人間らしく生きることは出来ない」という、ごくシンプルなことです。
優れた「文脈」は、読む前と、読んだ後とでは、明らかに自分の意識が変わっています。
僕が宗教に心を惹かれるきっかけのひとつとなったのは、ドストエフスキー文学を読んだことです。
「文脈」の力とは、そういうものではないかと思うのです。
ドストエフスキー、いや欧米文学の根底には、キリスト教思想が濃密に流れています。文学だけでなく、絵画、音楽、哲学、政治思想、… 欧米文化全体は、キリスト教という「大きな文脈」の上に乗っています。
恩師の平山郁夫先生が、繰り返し、私たち教え子に伝えようとしたのは、日本文化全体は、仏教という「大きな文脈」の上に乗っているという事でした。
これは本当にその通りだと、今でも確信しています。
ある時代まではーー「近代」という時代が始まる前までは、あらゆる文化的営みがーー西洋ならばキリスト教の上に、東洋ならば仏教の上に乗っていました。
古典として残っている作品は、そのほとんどが西洋ならばキリスト教絵画、東洋ならば仏教絵画であることが、その証拠と言えるでしょう。
宗教絵画は、「人間の誰かに見せる」という前に、「神(あるいは仏)に見せる」という意識で描かれているように思えます。現代の絵描きとは根本から意識が違うようです。「誰かを感動させたい」という意識すら無かったのではないかと思うのです。
けれど、その作品が、時代を超えて、私たちの心に訴える、力強い何かを持っています。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/101924
👆Episode24で「イスラム教徒には心を病む人、自殺する人がほとんど居ない」ということを書きました。
僕はいま明らかに心を病んでいますが、何故か「死にたい」とは思いません。「今は苦しいけれど、いつか乗り越える筈だ」と、どこかかで思っています。たぶん、これが信仰を持つ者の強みなんです。
現代の日本では年間3万人近く自殺で命を落とし、心の病で通院している人は300万人以上居るといいます。(こうして具体的数字を出すと、物凄いことだと、あらためて思います)。僕は、いまの日本で気が狂わないとしたら、むしろ、そちらの方がおかしいのではないか、とすら思っています。
現代人の生活から宗教が切り離され、同時に、芸術作品は宗教という「大きな文脈」から切り離されてしまいました。
芸術作品が必ず宗教と結びついていなければならない、と言うつもりはありません。
個人の楽しみの為であっていいし、現代アートのような知能ゲームであってもいいのです。
けれども「文脈」とやかましく言うわりには、宗教・信仰という「大きな文脈」からは、いまのアートは外れてしまっているように、僕には思えてならないのです。
冒頭の画像は『私家版・十一面観音』
上の画像は『FUGEN』(普賢)という作品です。
僕にとっての、宗教絵画とは何か、という模索から生まれた作品です。
「大きな文脈」の末尾に連なる作品、という意図で制作しました。
⭐️
では、また。
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode31~END~
To be continued
※この稿Episode32に続きます。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/15/225216