毒親連鎖を断ち切りたい

子供の頃から長い間押さえこみ続けた負の感情の蓄積は人生に大きなブレーキをかけてしまいます。ここで真剣に毒親問題に取り組み、負の連鎖を完全に断ち切りたい。このブログで「脱毒親への道」を記録してゆきます。

Episode41〜わが友アジャセ、お前に会い、お前の声が聞きたい。

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ハルです。

 

前回【Episode40】で

https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/30/180216

仏典の「アジャセ王子の物語」について書いた後、妙にこの人物が気になり始めて、「わが友」とでも言いたいくらいに親しみを感じるようになりました。奇妙な気持ちです。本当に。

 

⭐️

 

アジャセの正式の名はアジャータシャトル。実在した古代インドのマガダ国の国王です。父ビンビサーラを殺害して王位に就いたのも史実で、アジャセ自身も子に殺害されたと伝えられています。

 

その時代は初期仏教が興った時代でもあり、ビンビサーラ、アジャセ親子は共に、釈迦と深く関わり、仏教に帰依して、初期仏教教団を支える有力なパトロンでした。

 

子が父を殺す、という出来事は戦国の太古には珍しいことではありませんでした。

 

アジャセには6人の重臣がいて、父殺害後、罪の意識に苦悩するアジャセに「あなたが悪いんじゃないですよ。いつまでも悩んだりしないで、早く忘れて、国を治めてください」と助言したとのことです。

 

その助言を聞いても、アジャセの苦悩はますます深まり、病も重くなるばかりでした。

 

アジャセの快復が始まるきっかけは、医師のジーワカ(耆婆)出会ってからです。

 

ジーワカは他の重臣のように「あなたは悪くない」「忘れなさい」などと慰めたり、助言したりせず、アジャセの告白を、ただただ、最後まで聞くだけでした。

 

アジャセはジーワカに率直に心の内を吐露します。

 

父を殺したいほど憎んでいたこと、憎しみのあまり殺してしまったこと、殺した後、父の愛情に気づき、深い悔恨が生まれたこと、…

 

ジーワカは話を聞き終わると「よく正直にお話してくださいました。罪を犯しても『自分は悪くない』と言い張る人間、あなたに『悪いのはあなたじゃない』とそそのかす臣下は畜生にも劣ります。あなたは自分の罪をお認めになっている。自分の罪を自ら認める人間は必ず救われるでしょう」そう言って、アジャセに、釈迦の下へ行き、教えを乞うことを勧めます。

 

⭐️⭐️

 

アジャセ王子の物語は「観無量寿経」という経典に記されています。僕は岩波文庫で「観無量寿経」を読んだことがありますが、物語は最初の方に概略が書かれているだけです。観無量寿経の後半には、この苦しみから救われる為の「」が延々と書かれています。はっきり言って、この「行」の部分は読んで面白いものではありません。

 

お経は「読書」するために書かれたものでなく、それを声に出して詠(よ)む、詠(うた)うことによって苦しみを手放すために書かれたものです。

 

観無量寿経を重視した日本の僧侶は親鸞聖人です。今でも浄土真宗のお寺では観無量寿経は根本経典とされています。

 

親鸞聖人が著した「教行信証」にはアジャセの物語が詳しく取り上げられているそうです。僕は教行信証は読んだことはありません。でも親鸞聖人がアジャセに強く惹きつけられた訳は、分かるような気がします。

 

親鸞の時代は、貴族社会が終わり武家社会が始まる動乱期でした。社会の秩序が大いに乱れ、子が親を殺す、親が子を殺す悲劇は、権力者階級から下々に至るまで、珍しい出来事ではなかった時代です。

 

そんな時代には、肉親どうしの殺し合いがあっても、当事者は、

「こんな世の中だ、仕方がない」

「こうなったのは、俺が悪いんじゃない」 

そういう理屈で、無理矢理に、自分や、周囲を納得させる者が大勢いたことでしょう。

 

でもそんな理屈じゃ、人間の心は納得しないように出来ているし、永遠に救われず、一生苦しみ続けるように出来ているのです。

 

当事者が「こうなったのは仕方がない」「私が悪いんじゃない」と開き直れば、苦しみは続き、負の連鎖も続きます。そんな風にして世の中がどんどん悪くなってゆくさまを、親鸞は目の当たりにしていました。

 

 人を裁くべき権力者階級の宮廷内部は、当時倫理観など無いに等しく、グチャグチャのドロドロ。新しく始まった武家社会では、貴族社会より更に、肉親を殺すことを躊躇しない風潮がありました。

 

親鸞聖人の浄土真宗は、そんな時代に生まれたのです。

 

僕は浄土真宗の信徒じゃないし、親鸞聖人の行状を詳しく知っているわけじゃありません。だから、ただの想像なんだけれど、…


親鸞聖人は、肉親を殺す大罪を犯した者に出会ったとき、説教めいたことは何も言わず、ただ黙って、その人の告白に耳を傾けていただけ、なんじゃないかと思うんですよ。


罪人の告白を黙って聞いているうちに、その罪人の心の深い部分から、罪を悔いる気持ちが自然に浮き上がってくる。その気持ちが浮き上がってきたときに、


「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」


という言葉をかけたのではないかと。

 

そうでなければ、この言葉の深い意味が、理解できません。

 

そして、親鸞聖人自身に「俺こそが罪人である」という自覚がなければ、罪人の告白をただひたすら聞く、という行為は出来ないんじゃないかと思うのです。


⭐️⭐️⭐️⭐️

 

アジャセという大罪人の生涯は、二千年後の日本の僧侶に大きな影響を与え、大きな教えを生み出し、今の時代に同じ苦しみを持つ人たちにとって、救いの道しるべにもなっている。

 

不思議なことだなぁ、と思いますね。

罪人にだってちゃんと存在する意味があるんです。

 

では、また。

 

いつもお読みくださり、ありがとうございます。

 

 

Episode41~END~

 

To be continued