毒親連鎖を断ち切りたい

子供の頃から長い間押さえこみ続けた負の感情の蓄積は人生に大きなブレーキをかけてしまいます。ここで真剣に毒親問題に取り組み、負の連鎖を完全に断ち切りたい。このブログで「脱毒親への道」を記録してゆきます。

Epsode43〜どうしようもないアダルトチルドレンが歩く道には…生きるのが不器用な人間のための文学

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ハルです。

 

はてなブログのお友達のk77703230418さんの記事はいつも楽しみに読ませて貰っているのですが、下の記事に登場する「M君」のエピソードが、とても印象的だったので、それについて思ったことを書いてみたいと思います。

【誰にでも親しげなアダルトチルドレンは誰も愛していない】

https://k77703230418.hatenablog.com/entry/2019/03/03/180323

 

真面目で神経質な公務員の父と、お嬢様育ちのピアノ演奏家の母の元で育ったM君。その生い立ちと人生を読んでいると、まるで太宰治の小説を読んでいるように感じました。

 

太宰治アダルトチルドレンだったかどうかは分かりませんが、太宰の小説に出てくる人物、例えば「人間失格」の葉蔵は、典型的なアダルトチルドレンだと思います。

 

セレブの家に生まれ何不自由ない幼少期をすごした主人公の葉蔵は、人前では陽気な道化を演じ人気者ですが、実は子供の頃から、他人と、心の底から通じあうことがまったく出来ない人間でした。道化は「仮面」なのです。その仮面がいつか剥がされるのではないかという恐怖から、青年期に酒色に溺れますが、しかし、心はちっとも満たされずに、歳を重ねるごとに、ますます人生と他人に対する恐怖がつのるばかりでした。愛情を求め、女性遍歴を重ね、常に破滅的な結果に終わり、やがて度を超えた大量飲酒と薬物依存によって、ついには廃人になってしまいます。葉蔵をよく知るマダムは、こんなことになったのは「お父さんが悪い」と最後に言い残します。

 

こんな小説に惹きつけられる人が多いのは何故でしょうか。「葉蔵は私だ」と思う人が多いのは何故でしょうか。

 

⭐️

 

僕がアダルトチルドレンだと思うもうひとりの文学者は、俳人種田山頭火です。

 

「どうしようもないわたしが歩いてゐる」

 

という句の「どうしようもない」に、山頭火の人生への万感が込められていると感じるのです。

 

女癖、酒癖の悪かった父の行状に苦しんだ母が自殺したことが、山頭火の精神に決定的に暗い影を落としました。それ以来、不運と失敗ばかりの人生が続き、憂鬱を紛らす為に、憎んでいた父と同じように酒に溺れてゆきます。

 

山頭火自身、自殺未遂をしていますし、実弟も自殺で亡くなっていますから、「生きるのが不器用」が血に染み込んでいて、その自覚も大いにあり、自分の人生を呪っていたことでしょう。

 

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僕はその昔、大学時代の恩師のF先生に「お前は種田山頭火に似ている。顔も性格もそっくりだ」と言われたことがあります。

若いころから、通じる何かがあったのでしょうか。

 

いま、僕は坊主頭で、あご髭を生やしていて、しかも眼鏡をかけていて、上の山頭火の写真を見ると、気味が悪いくらいそっくりです。HPのプロフィール写真に使っても、もしかしたら、誰も怪しまないんじゃないかと思いますね。

 

⭐️⭐️

 

太宰治種田山頭火も、資産家の家で生まれ育ち、経済的には不自由しませんでしたが、抑圧された幼少期を過ごし、愛情に飢え、父を憎悪し、生きる苦しみを紛らす為に浴びるように酒を飲み、「どうしようもない」不器用な人生を歩みました。冒頭のM君も同じ種類の人間ではないかと思えます。

 

M君は、アルコール依存の自助グループや、親しいごく一部の人には、母への憎悪を吐き出していましたが、外の世界に対しては、母を美化し、自慢していたそうです。

 

太宰や山頭火は文学者ですから、自分の心の中にあるドロドロを「作品」という形で、世の中に吐き出すことが出来ます。

 

文学という「吐き出し方」を知らない人間は…

 

僕はM君のエピソードを読んで、太宰治の文学作品を読むような感銘を受けたのだけれど、k77703230418さんに「M君は太宰治を想起させますね」と言ったら、意外に思われたようです。

 

⭐️⭐️⭐️

 

自己の内にあるドロドロをありのままに描く「私小説」は日本で独特の発展をしたそうです。

 

それは「書く人」と「読む人」が揃っていなければ成立しません。

 

アルコール依存者の自助グループや、カウンセリングのグループセッションでは、「心の奥底にしまっておいたものを吐き出す」ということを行いますが、それはたった一人では出来ません。吐き出したものを無条件で受け止める人がいなければ成り立たないのです。

 

そのグループには同じ苦しみや失敗を重ねた人が集まっているので、安心して吐き出すことが出来るし、受け止める人も心から共感することが出来ます。

 

吐き出す」「受け止める」ことによって「苦しみを手放してゆく」。僕はこれが文学の本質ではないかと思うのです。

 

僕やk77703230418さんが属しているコミュニティは小さなものですし、そこで語られている事を「文学」などと言えば嗤う人がいるに違いありません。けれど、そのコミュニティの中にいる人間にとっては、そこで語られる事は「人生を根元から変える大きな力を持った物語」なのです。

 

これが社会全体に広がれば、それが普遍的な「文学作品」として評価される。ただそれだけの違いです。社会的評価があるかないかだけで、僕という個人にとってみれば同じ力を持っています。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️

 

最近の日本の作家はドロドロした私小説をあまり書かなくなりました。

 

僕は文学好きの人間ですが、最近の作家の本はあまり読みません。エンターテイメント性の高い面白い本はたくさんあると思いますが、僕の中に石のように固まりどっかり居座っているモノを砕いて、洗い流してくれるような文作品が見当たりません。

 

僕のような人間からすると、たいへん残念な事です。

 

心の奥底にある苦しみを「吐き出す、受け止める」という場は、時代がどんなに変わっても必要です。

 

文学には、もうその役割は求められていないのかも知れません。

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では、また。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 

Episode43~END~

 

To be continued