Episode42〜令和の令とカマボコの話
ハルです。
4月1日の11時ごろ、外出していた妻が慌てたように帰ってきて、僕の仕事場に入るなり、「ハルくん、一緒に見ようよ」とスマホのTV中継画面を見せました。
妻は僕と正反対で、こういう大きな社会的イベントを素直に楽しむミーハーな性格。内向的な僕はちょくちょくそれに巻き込まれて、時々ウンザリしつつも、救われている面もあるので、一緒に、その小さな画面を見ることにしました。
画面の中の、豆電球のようにつややかな額の見慣れた年配男性が掲げた額には「令和」と書かれていて、僕は思わず「いい字だね」と言って、妻も頷きながら、改元にまつわるワイドショーネタのお喋りをはじめて、そこは僕は本当にまったく興味がないので適当に相槌を打っていました。
それにしても、年の途中の思わぬ時期に元旦がやってきたような、新鮮なリセット感はありますね。僕の印象はこんな程度だけれど、ネットから流れてくる声には「令和の令は、命令の“令”ではないか⁈」というものもありました。
そんな風に感じる人も居るのか、と思いましたが、でも、そう感じる人の心理の底には何があるんだろう?と少し思いを巡らしました。
⭐️
僕が井上さんのグループセッションを受けようとしたきっかけのひとつは、女房の「最近のハルくんは怖い」という切羽詰まった訴えがあったからでもあります。
去年の暮れから特に酷くなりましたが、この二、三年、僕はほんの些細なことで、イライラが止まらなくなっていました。
自分では気づいていなかったのですが…
例えば、僕が夕食の野菜炒めを作っている最中に、妻に「その中に冷蔵庫にある余ったカマボコ入れていい?」とでも言われようものなら、「命令するな!」と怒鳴り返していたのです。
いまこうして思い出してみると「俺どうかしていたぜ」と思いますが、怒っている最中は「『これとこれで野菜炒め作って』と言われたから、こうして作って、もう完成しかかっているのに、今さら『カマボコ入れて』って何だ! 最初に言え!」と、僕なりの当然の理由があって、怒っていたわけです。
でも、それを普通の言い方で言えばいいだけなんですよ。「もう出来ちゃったよ、面倒くさいし、別に食べればいいじゃん」みたいに。そう言えば妻も「そっか、そうだね」で済むし、妻も別に命令するつもりで言ったわけでなく「こうすればどうかな?」的に何げなく意見を言っただけ。それをいきなり「命令するな!」と怒鳴り返せば、妻にすれば何で怒られたのか訳が分からないし、当然傷つきます。
そんな、普通の会話が出来ないくらいに、僕の心の中は余裕を失っていたのです。
⭐️⭐️
「令和の令は、命令の令だ」と怒っている人の心理の底に何があるのか、よく分かりません。その人の中では、たぶん、必然的な理由があるのだろうと思います。
でも、外からは、何故怒っているのか、訳がわからないし、ごく普通の感覚の人には「そんなに怒ることかなぁ」としか思えません。
「怒り」という感情は、たとえ外からは理不尽に見えても、その人の中では必然的な理由があります。僕はそれを、ここ数ヶ月で身をもって思い知りました。だから怒りや不愉快な感情を表明することは悪いことだとは思いません。
ただ「令和の令」に怒っている人は、外からは、「カマボコ」に怒っている僕と同じくらいに、意味不明に見えるのです。
「怒り」の感情は否定しないけれど、「怒り」は表明の仕方を間違えると、周りの人を戸惑わせるばかりで、場合によっては、傷つけてしまうことだってあるのです。
ところが当人は「俺がこんなに怒っているのに、何故お前は俺の怒りが分からないんだ!」といって、更に激しく怒る。
周りは、その人が怒れば怒るほど戸惑いが大きくなり、訳が分からず、近くに居る人はどんどん傷つく、という負のループに入ってしまいます。
⭐️⭐️⭐️
ボンベの中に圧搾空気が詰め込まれているみたいに、僕の心の中には「怒り」がギュウギュウに詰めこまれていて、ほんのちょっとした意見にさえ「命令するな!」と怒鳴り返す。
いつの間にか、とても危険な状態になっていたのだけれど、ここで気がついたのは幸運でもあります。
これから半年かけて、ボンベのバルブを少しずつ開いて、空気を抜いてゆくわけです。…
では、また。
いつもお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode~END~
To be continued