Episode30〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①
ハルです。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/212759
Episode26👆で書いた最悪の状態は脱したようですが、まだメンタリティの波があり、今日は朝から調子が良くなかったです。
それでも、冒頭くらいの絵を描いているんだから、俺って偉いなぁ。(と自分褒めしておこう)
メンタルが下がったきっかけは分かっています。(それは後述)。今日は女房が朝から東京に出張で、夕方、高速バスのバス停まで迎えに行きました。車の中で女房が「今日調子はどうだった?」と聞くので「悪かった」と素直に答えました。
今までだと「大丈夫だったよ」と答えるところですが、調子が悪いときは「悪い」と答えるようにしました。「悪い」と答えたからといって女房に危害を加えるわけでないし、単なる体調の報告ですから。素直に「調子悪かったよ」と言った後は、いくらか気持ちが楽になりました。身体や心のサインは隠さない方がいいし、近しい人にはむしろ知ってもらった方がいいようですね。
僕はTwitterの本垢やFacebookでは、画家仲間や美術関係者と繋がっているんですが、ここ最近はそちらのタイムラインは意識して見ないことにしていました。
けれども、今「アートフェア東京」会期中でもあるし、会田誠さんが訴えられた件も(この業界では)ホットな話題でもあるし。
夜中に目が覚めた時にうっかりスマホを開いて、それらの件の記事を見て、一気にメンタルがダダ下がりになり、朝まで寝付けなかったのです。
たとえばメンタルを病んで会社を休職(または退社)した人は、自分がもと居た会社で「誰それが出世した、活躍している」という話を聞いたら気分良くならないでしょうね。そもそも会社を思い出したくもないでしょう。
僕は絵を描くことはやめませんし、アートそのものには一生関わっていきますが、いまの「アート業界」は好きじゃない、いや、はっきり言うと、嫌いです。
鬱病で会社をドロップアウトした人が二度と会社には行きたくなくなるのと同じように、(僕はアーティストをやめるわけではないので、完全に離れるわけにはいかないけれど)出来ればアート業界からは距離を置いていたい、というのが本音。
この感覚を、分かるように説明するためには、少々込み入った説明が必要だし、今どきの美術関係者さんに「アート業界が嫌いなんです」と言うのは物凄くメンドい。いちいち会社に行って、会社に生き甲斐を感じてバリバリ働いている人に「この会社嫌いなんだよね」と言うのと同じくらいにメンドい。相手だって絶対にいい気分しないに決まってる。
ここに来て、会田誠さんが訴えられるという件が話題になって、まあ会田誠さんの仕事はこれまでにも何度も「炎上」騒ぎになっていて、そのたびに僕は一応コメントしたりしていたけど、僕もその時は一応アート業界なる「大きな会社」に関わっていたこともあり、否が応でも関心を持たざるを得なかった、ということもあります。
けれども今は、本当に「辞めてしまった会社」の話題を聞くような気持ちしか沸き起こってこないのです。こんな感覚になってしまったことに本人が驚いているけれど、正直、そのようにしか感じられない。
いつの頃よりか「アートでは文脈が大事だ」と言われるようになって、…いや…いま、“いつの頃よりか”と空っ惚けて書いてしまったが、村上隆さんが「文脈」ということをやかましく言い出したんだけれど、「アートは文脈、背景の歴史が大事なんだ!」という言い方が流布されるようになってから、僕はアートの世界に、なんか、薄ら寒いものを感じ始めるようになりました。
「村上隆の作品なんてタダのアニメオタクの絵じゃないか」
とか
「会田誠の作品なんてタダのエログロじゃないか」
という批判をする者は、その作品が成り立つに至る文脈、文化的背景を見ていないのである!
会田作品を見て不快を感じたなら、「何故不快を感じたのか」を学問的探求心で掘り下げて考えてみるべきなのである!!会田作品をそこらのエログロと同列にみなす時点で、訴えた女性はアートの何たるかをまるで分かっていないのである!!!
…うう、こう書いてきて、なんか気分悪くなってきちゃった。マジで吐きそう。👆のような理屈をブチあげる奴に実際に出会ったら、俺、本当に吐いてしまうかも知れん。
⭐️
実際のところ、村上隆さんも会田誠さんも海外で高く評価されているし、それは作品そのものよりも「作品が成り立つに至る文脈」が評価されているからに他なりません。
「絵が上手い」だけじゃアートの世界では評価されないんです。作品の向こう側にある「文化的背景」まで感じさせるものでなければならないんですね。
僕は院展という、岡倉天心が創設した日本画の公募団体に20年出品し続けていました。
え?…岡倉天心、知らない?
…いや、それは検索でもして調べてみてくださいね。(^^;)
簡単に紹介すると、
歴史の教科書にも載ってる偉人で、たんに院展を興した「近代日本画の創始者」にとどまらず、西洋思想に対抗しうる「大いなる東洋思想」を勃興しようとした思想家でもあります。
若き岡倉天心の時代には、日本に、西洋文化が奔流のようになだれ込んできました。
政治体制から庶民文化に至るまで、すべてが西洋流に大転換する時期で、美術の世界でも「古臭い日本画などもう終わりだ。これからは西洋画の時代だ」などと言われていたものです。
それに抵抗したのが岡倉天心でした。
彼の理屈は概ね、こうです。
「西洋画には、その芸術表現が生まれるまでの必然的な歴史背景がある。言わば根っこがあるのだ。西洋に生まれ育った西洋人が西洋画を描くなら根っこがあるが、遠く離れた日本に住む日本人が、表面だけ西洋画を真似て描いても根っこがない。日本人ならば、東洋に脈々と流れる文化の歴史を知り、その土台の上に立った芸術表現をすべきである。」
偉いものですね。🤗
岡倉天心は百年以上前に、芸術作品はその作品が成り立つに至るまでの歴史背景(文脈)が大事だ、ということを、既に言っているんですね。
これは本当にその通りだと思います。
僕は、岡倉天心の血脈を正統に受け継いでいる平山郁夫先生の薫陶を受けたので、この考え方が身に染み込んでいます。
平山郁夫先生は、「仏教伝来」「シルクロードシリーズ」で、日本の諸文化が、長い歴史の中でどのように伝えられ、どのように結実したのか、我々が寄って立つ文化の来歴を絵画で表現したのですね。(👇の画像は平山先生の代表作『仏教伝来』です。)
平山作品の価値は(勿論作品そのものにもありますが)やはり「作品の背後にある歴史背景」にあります。
平山先生ご自身もよくこう言っていたものです。「歴史が感じられない物には絵心が湧かない」と。
物事の表面ではなく「その背後にあるもの」に、常に注目していたのですね。
もうこのブログで何度も書きましたが、僕は恵林寺というお寺とご縁があります。
現住職の古川周賢老師に、今年の正月、おおむね、次のようなとても興味深いお話を伺いました。
お寺に奉納する仏画、襖絵、天井画は、本来、そこに住み修行する僧の、修行の支えになるべきものだ。だから昔の絵師は寺に住み込み、僧と同じ生活をし、仏教知識を身に染み込ませた上で、寺の中で作品を描いている。しかし現代のお寺に奉納される作品は、寺とは離れたアトリエで、画家の独りよがりの感覚によって、描かれている。
古川老師によると、加山又造画伯の天龍寺天井画龍図や、千住博画伯の聚光院伊東別院襖絵なども、本来、お寺に奉納される天井画、襖絵の文脈から外れているそうです。それらは「アート作品」なのかも知れないが、「修行の支えとなるべき作品」からは外れている。昔は当たり前のように絵師が寺に住み込み、寺で制作することがあったけれど、それがなくなり、「アート作品として『鑑賞』されるものではあるけれど、仏法修行の『支え』になるものからは外れている」というチグハグなことが起こるようになってしまった。
僕は古川老師の見識はその通りだと思います。
早い話、お坊さんの袈裟を、一流のファッションデザイナーにデザインさせれば、優れた「アート作品」になるかも知れない。でも修行をする僧の衣として適切なのかどうか、という事なのです。
村上隆さんの五百羅漢図などは、アート作品の文脈には乗っていますが、仏教の文脈には乗っていないのですね。
現役の老師が言ってるのだから、これは間違いありません。
さて、ここまで書いてくると、薄々分かっていただけると思うんですが、いまアートの世界でやかましく言われている「文脈」って、とどのつまり、西洋人の作り上げた文脈なのです。
村上作品も会田作品もそこに見事にはまっています。だから、アートの世界では本当に高く評価されています。僕もアートの世界の「社員」だった頃はそう思っていました。今でも批判するつもりはありません。
評価するつもりもないけれど。
要するにまったく興味を失ったのです。これはもう仕方がない。
いまの僕にとって、アートの世界は遠い世界のように感じられるし、いまいちばん何に心惹かれるかというと、仏教、というか宗教ぜんたいですね。
仏教の「文脈」には興味があるけれど、アートの世界の「文脈」には興味が沸いてこない。これが、偽らざる気持ちです。
海外ではめっちゃ高く評価されているのに、村上作品や会田作品は、日本ではイマイチ評判が良くない、というか、バッシングすらされています。
個人的には「嫌いなら見なきゃいーじゃん。いちいちディスらなくてもいいのに」と思うけど、「村上作品や会田作品の価値を理解できない日本人はバカだ」と言う人を見ると(村上さんはご本人がちょくちょく「バカ」と言っているわけだけど)、「いや日本人に理解できないのは当たり前だよ。アートの世界で言う『文脈』って、西洋人のこしらえた『文脈』だもん」って思いますね。
その「文脈」は西洋人の血肉にはなっているけど、日本人の血肉にはなっていない。だから村上・会田作品を見て「はあ?」と感じてしまうのは無理からぬことなのです。いや、学問的に理解することは出来ますけどね。
Episode24でイスラム教について書きましたが、今や世界人口の3割がイスラムだし、イスラムが世界の趨勢の主導権を握ることだって、あり得ないことじゃない。
イスラム文化圏では、女性にオナニーやセックスの画像を見せたら、まず殺されてしまいます。そういう、西洋人とはまったく異なる文化的背景を持つ人々に、いまのアートの世界の「文脈」って通用するのかな、ということは、時々考えますね。
Episode24〜伝統宗教は心の病に効く!
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/101924
それでは、また。
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode30~END~
To be continued
追記
この稿は次回Episode31に続きます。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252