Episode33〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い④
ハルです。
トップ画像に僕の作品画像を掲載するようになってから、アクセス数が若干上がったみたいです。
今回も、自作解説から始めます。
👆は『コスモラジオ』という作品です。
この作品の前に描いた『妖精受信機』👇の、発展型の、空想上の機械です。
このラジオは、人間の想像力を受信して形を与える機能を持っています。ガラス管の中では妖精が形作られているし、機械内部の上の方では、火の玉を司る女神と、龍が生成しています。
現代の私たちの生活には、ラジオもテレビも当たり前に存在していますが、その昔、箱の中から声が聞こえたり、映像が映し出されるのを見た人たちは、不思議な気持ちになったのではないかと。そういう機械がどんどん発展していって…
…そういう空想だけは子供の頃から絶えたことがないので、絵を描くのをやめることはありませんね。たぶん。
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ここ数回「僕はアートの世界の『文脈』が嫌い」という題で書いてきたけれど、結局、僕は子供の頃から、自分の頭の中に浮かび上がってくるものに、現実の世界以上に興味を持っていて、酔いしれてもいて、大人になってから仏教だの、聖書だのも入りこんできて、そんなことを50年近く続けているから、自分の頭の中にかなりボリュームのある「文脈」が出来上がっているのです。それがアートの世界で言われている「文脈」の上に乗るのかどうか知らない。大学で一応美学や美術史も勉強したから、大まかな流れは知っているけど、美術に限った歴史や学問には、どうにも興味が湧かない。興味が湧かないから、その「文脈」に乗ろうが乗るまいがどちらでもいい。Episode30で書いた通り、僕は「アートの世界」という「会社」から降りたようなものなので、「会社の出世コースに乗ったか乗らないか」というのと同じくらいに興味が湧かない話です。
ただ僕は、家族と共に食いつなぐことが出来て、絵を描き続けるだけのお金は欲しいと思う。それだけが望みです。
「どちらでもいいと思うなら、わざわざ『興味がない』なんてイヤミったらしく書かなくてもいいじゃん」という意見もあろうかと思うけど、わざわざ「興味がない」と書いておかなきゃならないくらいに、いまの私たちの住む社会はアートの世界を含めて相当歪んでいるように見えます。はっきり言えばアートの世界全体が新興宗教化しているように見えるし、「その新興宗教と自分は関係ない」という意見表明だけはしておきたい。
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「不快をもよおすアート作品」があるとするなら、作者は明確に「見た人が不快になるだろう」と意図して作っています。
ナントカという心理学者(検索して調べてね)の研究によると、人間というものは「心地よい」ものよりも「不快」なものに惹きつけられ、大きく心を動かされることが明らかになっています。そりゃそうです。「防衛本能」というやつは、快感より痛みに、心地よいものよりも不快なものに、強く反応して、それを遠ざけようとしますから。
「不快感を与えるアート」をあえて作るアーティストは、そのいう人間心理を知った上で、確信犯的に作品制作して、発表しています。
ならば、それを見る側は、見る側の感覚に忠実に従って、不快感を感じたら「そいつを遠ざけていい」んです。アートだからって受け入れなきゃならない道理はないんですよ。会田誠さんに不快感を感じたら遠慮なく石を投げていいんです。それが人間としてまっとうな自然な行為です。会田さんだって本心ではそれを望んでるんじゃないかな。知らんけど。
会田さんが訴えられた件では、受講した女性が「性的刺激の強い映像を見せられて苦痛を感じた」との事です。ネットの意見を見ると、アート側の住人は概ねこの女性を非難しています。僕はいくつか読んでみましたが、どれも大意は「アートが分からない無知な女だ、もっとアートを勉強しろ」というもの。僕は正直言って「アートの住人の考え方って、このエリート意識で何十年も止まったまま、変わらないんだな」と思いましたよ。
何故「性的なものを見せられて不快感を感じる」のか? 生物本能からしたらおかしいではないかと思えるけれど、これは正確に言うと「公的空間で性的なものを(本人の意思を無視して)見せられるのが不快」なのです。この感覚は異常でもなんでもありません。人間としてごく自然な感覚です。
最近、イスラム文化を知るようになり、その理由が分かるようになりました。イスラムは結婚したカップルの性に寛容な反面、性のタブーも厳しく定めています。婚前セックス、不倫は重罪。女性にポルノを見せるのも重罪です。外出する際女性は身体の性的アピール部分をヴェールで隠す。婚姻関係でない男女が二人きりで同席することは禁止されています。握手等で男女が肌を触れ合うことも絶対にダメ。これら性に関する定めは厳しいようですが、人間の性質を熟知した、きわめて人間的な定めだと思います。
これは、人間の性質を原理的に考えれば分かるんですよ。
ポルノが氾濫して、女性がセックスアピール満点の姿で闊歩していて、セックスフリーの先進国で何が起こっているかというと、少子化問題です。「少子化が起こるのは国の政策が悪い」と言うのは見当外れで、「子孫を残すためにセックスをする」という大元の原理を忘れて、セックスフリーにしているから、こんなことが起こるのです。
シャリーア(イスラムの基本法)には「結婚したらどんどんセックスしろ」(まあこんな直接的な書き方じゃないけど)と書かれています。結婚して寝室に入ったら欲望のまま何をしてもいい。そのかわり、結婚前や公共の場での性のタブーがある。タブーがあった方が燃えあがるのが人間の性です。現にイスラムは移民も含めて人口が増えています。寝室で燃えあがって思う存分セックスしているからです。婚前セックスや不倫で無駄なセックスはしないんです。合理的な考え方です。
男にとっちゃ、そもそも外出しても女性と同席する機会がないし、外で見かける女性はセックスアピールを完全に隠している。ポルノもない。だとしたら当然「唯一女の性的アピールを見せる自分の妻」に燃えあがるのが道理なのですね。イスラムの社会は合理的に、とてもうまく出来ているんです。
性的欲望を刺激するものがイスラムには皆無かというと、そんなことなくて、千夜一夜物語を読めば分かりますが、ポルノ小説まがいにセックスの描写がバンバン出てきます。視覚的刺激はタブーですが、文章ならいいんです。それに文章で性的欲望を刺激するのは、かなりレベルの高い知的行為でもあります。ヌードを見せて興奮させるのは誰にでも出来ます。
イスラムの女性はヴェールの下は何を着てもいい。派手で刺激的な下着を着て、パートナーだけにそれを見せて興奮させる。イスラムの女性は往来で不特定多数の男を興奮させる格好で歩くことをしません。「セックスする相手じゃない男を興奮させてどうするの?」という理屈です。これも合理的な考え方ですね。
公的な場では、性的欲望を刺激をするものを完全に排除する。私的な場では完全フリー。これは人間の性質を熟知した人間的な定めだと僕は思いますが、読者の皆さんはどう思いますか?
⭐️⭐️⭐️
会田誠さんは彼なりに「アートの世界の論理」に忠実に従って、現代アーティストとして誠実に作品制作をしています。僕はこれを非難する気はまったくありません。「会社員が会社の論理に従って誠実に仕事をしている」のと同じことです。彼は自分の使命に忠実に生きているだけ。彼が作る、その会社のお墨付きの製品が気に入った人は買えばいいし、気に入らないなら買わなくていい。それだけのことです。
「会田さんに見せられた画像で苦痛を感じて訴えた」女性も、間違ったことは何もしていません。(どんな画像だったか知らないけど想像できる)その映像に不快感をもよおし、公的空間から排除しようとするのは、きわめて人間的な自然な行動です。会社の製品に酷い目にあった消費者がクレームをつけたり、訴えたりしちゃいけないのかという話。
彼女を非難する人は「アートの悪しき毒」に頭がやられて本末転倒を起こしていると思いますね。
さて、
「僕はアートの世界の『文脈』が嫌い」というテーマで、4回にわたって書いてきましたが、このテーマでの記事は、ひとまず、ここで終わりにします。
では、また。
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode33~END~
To be continued
【参考までに…】
Episode30~僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052
Episode31~僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252
Episode31~僕はアートの世界の「文脈」が嫌い③
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/15/225216
Episode32〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い③
ハルです。
前回、前々回と、アートについての僕の思いを忌憚なく正直に書いてみました。
Episode30〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052
Episode31〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252
毒親の話題からは離れますが、このブログは「自分の心の変遷」の記録でもあります。
やはり、アートへの思いは書こうと思えば溢れるほどあるので、ここでまとめて書いておこうと思います。
👆冒頭の画像は『祝福すべき多くの世界』という作品です。
これは僕にとっての「悲母観音像」とも言えるもので、私家版仏教絵画のシリーズに連なる作品です。
この作品は「佼成」という、立正佼成会の機関紙の表紙に掲載して頂いた事があります。
僕はかつて創価学会に所属していたことがあります。(そこを脱会したことは、このブログに度々書いています)。ご存知の方がいるかも知れませんが、創価学会も、立正佼成会も、日蓮仏法の「文脈」に連なる宗教団体です。
僕は創価学会という団体には、もう未練も執着も持っていませんが、日蓮仏法には、今でも言葉では表現しきれないほどの思いを持っていて、僕という人間の何割かは日蓮仏法によって成り立っているとさえ思っています。
日蓮の教えに連なる宗教団体の機関紙の表紙に、しかも私的な「仏画」のつもりで描いた作品が掲載されたことに、言い難い仏縁を感じざるを得ません。
さて、
ここからいきなり話が転換して、アートのお金の話になります。
現在の日本のアート市場は3000億円ぐらいだそうですね。一方、世界のアート市場は約20倍、6〜7兆円だそうです。
最近の世界のアート市場規模を数字の上で押し上げたのは言わずと知れた中国マネーです。伸び率の数字をここに書くとクラクラしてくるので書きませんが、とにかくビックラこく数字なのは間違いない。
ただアート市場全体としては、ここ数年「頭を打った」感があるように感じます。上がったとしても「桁外れの伸び率」は、もうないのではないでしょうか。
その根拠は(もう誰もが分析していますが)、
ひと昔前まで後進国だった中国が先進国入りして、お金持ちになった分、アートにお金を使うようになりました。アート市場の売上の伸長に中国マネーが貢献したのは間違いない。ここに来てアート市場の伸び率が止まったのは、中国の経済成長率が止まったから、というのが大きな要因です。
世界の、残る後進国を経済発展させてお金持ちにすれば、またアート市場は伸びるでしょうけれど、地球上を見渡してみると、それらの後進国の多くはイスラム教国家が多い。
イスラムの国で、性器を晒した作品はまず受け入れられない、というか、ナチスの焚書みたいにボンボン火にくべられてしまうか、自分の◯◯◯を作品にした某女性美術家などは殺されても文句は言えません。
…と、少々オーバーに書きましたが、イスラムはそもそも「形あるもの」に執着することを嫌う宗教なので、造形芸術そのものが、イスラム教国家では成り立たない、と想像されます。
仮にイスラム教国家が軒並み豊かになったとして、現代アートの売上が、中国経済が伸長した時と同じように伸びてゆくのか?
⭐️
でも、よくニュースで聞きますよね。「◯◯の作品が◯◯オークションで最高落札価格更新!」とか。そのうち作品一点が10億ドル(1000億円)超える日が来るだろうとも言われています。
アート市場は相変わらずイケイケで景気がどんどん良くなってきている印象があるし、これが永遠に続くようにも思えます。
ただ、僕の肌感覚ですが、「売れる作家・作品」と「売れない作家・作品」の格差はどんどん開いてきています。一見景気がいいように見えるアート市場ですが、お金は一部の「売れる作家・作品」に集中して、その傾向はどんどん強まっているように感じます。
景気がいいように見えるし、「何某という作家が◯◯という記録を更新した」という話もよく聞きます。でも現場の作家には「景気がいい」という感覚はまるでありません。
A.めっちゃ売れる作家
B.そこそこ売れる作家
C.売れたり売れなかったりの作家
D.売れない作家
と大雑把に分類すると、僕は15年くらい前まではB、10年ほど前からBとCの間ぐらいになり、今はCとDの間ぐらい。(そのうちDに転落するかもという恐怖に打ち震えています)。
ナンチャラの法則(検索して調べてね)というのがあって、市場が成熟すると、上位2割が全体の8割の売上を独占するそうです。僕の肌感覚でも、現在のアート市場は、この法則に当てはまっていると思います。
もうひとつの定理があり、上位のお金持ちほど、B、C、Dには見向きもしない。これも僕は肌感覚で痛いほど分かります。
「Dに転落しつつあるのが分かっているなら、上位2割に食い込む戦略を立てて、努力すればいいじゃないか」と言われるかも知れませんが、(そういうことも今までけっこう言われたものですが)、正直なところ、いまの僕には、まったくその気持ちが湧いてきません。
あ、
懸命な読者はもうお気づきかも知れませんが、今のアート市場のど真ん中で活動したい、という方には、僕の文章は何の役にも立たないので、もうお読みにならなくて大丈夫です。
何度も言いますが、このブログは、僕の私的な「心の変遷」を記録するのが第一目的なので、ここまでに僕が書いたことも、とどのつまりは、心を病んだ一絵描きのタワゴトに過ぎません。
さて、タワゴトを続けるとします。
…とはいえ、少しは役立つ(かもしれない)話を、ここから書いてみますね。
僕は院展という、権威ある日本画の公募団体に、20年出品していました。
僕が院展で思い知った絶対原理は、
作家には自分の作品の価値を決めることは出来ない。
ということです。
どんなに「作家の価値観で傑作と思える作品」を描いたとしても、落選したら「価値なし」です。これは作家がどんなに歯ぎしりしても、動かすことが出来ない絶対原理です。
入選する→受賞する→無鑑査になる→同人(審査員)になる…という階段を上がるごとに、作品の価値(値段)は上がってゆきます。
この原理は機械仕掛けの歯車のように徹底しています。
徹底していないと、マーケットが混乱して、あっちこっちに不都合や、トラブルが頻発してしまいます。
作家に自分の作品の価値(値段)を決める権限はありません。
作家とその作品の価値(値段)を決めるのは、公募展の審査員です。
厳正なる審査を経た公募展での成績によって、作家・作品の価値が決められます。
ちなみに、僕の作品の現在の販売価格は、院展に入選を続けていた頃に決められたものです。
僕は今は院展を辞めて無所属です。
辞める時に画商さんに相当反対されました。「作品の価値を決める場所」からドロップアウトしてしまうわけですから、出来るだけ作品の価値(値段)を上げて売りたい画商さんは当然反対しますよね。
それでも、僕の作品はそこそこ売れました。僕は公募展での位置よりも「作品そのもの」が評価される稀な作家だったので、そういう例外が起こったわけです。
⭐️⭐️
つい最近、院展の恩師だったF先生のお宅に伺って聞いた話によると、院展の審査員といえども、最近は作品が売れなくなったそうです。
別の公募展の審査員のT先生とお話をした際にも「大学教授や公募展の審査員でも今は売れないよ。私が知ってる作家で売れてるのは5人ぐらい。私も含めて皆売れなくなった」との事でした。
F先生もT先生も、日本画家なら誰でも知っている著名な作家です。その先生方が、こう言っているということは、つまり、作家の価値を決める権威は公募展から、別の場所に移ったのです。
現在、作家・作品の価値(値段)を決めているのは誰か?
世界のアートフェア、アートイベント(ベネチアビエンナーレ等)、有名美術館での展覧会を仕切るキュレーター。権威ある美術学者。有名コレクター。一部の投資家などです。
公募展の審査員のように、名前がはっきり公表されているわけではありませんが、分かる人には分かっています。(俺は知らんけど)。
彼らは、どこかの審査会場で一同に会して話し合っているわけではありません。その辺の具体的仕組みは僕もよくわからないけど、とにかく一部の権威ある人たちが現代アートの価値を決めている事は暗黙に了解されている事実です。
で肝心の「審査基準」ですが、これは公募展の審査が非公開でブラックボックスなのと同じで、現代アートの価値を決定する基準は、外からはまったく分かりません。
ところが、業界の暗黙知というやつが、どこにでもあるわけです。
院展に20年出品した僕の経験から言うと、ある程度入選を重ねると、ぶっちゃけ、ブラックボックスの中の審査員の価値基準が見えてきて、入選する為の「傾向と対策」がだんだん分かってくるものなんです。
現代アートにも、はっきり言えば「それ」があります。
村上隆さんは、現代アートが売れる「傾向と対策」を日本人作家の中でいち早くつかみ、しかもそれを「アートは文脈だ!」というメッチャ分かりやすいワンフレーズで広めた人です。
村上さんは、僕の三年上の先輩ですが、学生時代から、とても絵が上手い上に、大変な努力家でした。
僕が大学一年の時、村上さんは四年生。僕が初めて観た芸大の卒業制作展の会場で、村上さんの作品は、はっきり言って、他を圧倒する出来栄えでした。
村上さんの卒業制作への意気込みは、隣の一年生教室で制作をしていたヒヨッコの僕たちにもビシビシ伝わる並々ならぬものであったことを、今でもはっきり覚えています。本人は首席をとるつもりでいたし、周りもそう感じていました。
ところがフタを開けてみると、卒業制作の順位は四番目。本人もあらゆる場所で述べていますが、相当なショックだったようです。
僕は今でも、卒業制作の審査をした先生方の価値基準が不可解でならないのですが、ひとつ考えられるのは、村上さんは「才能がありすぎて審査の先生方に嫌われたのではないか」ということです。
あまり大きな声では言えませんが、いや僕はもう芸大日本画科と縁もゆかりもなくなったから、はっきり言うけれど、日本画の世界は、上の先生から愛されないと、ほぼ一生浮かび上がれない世界なのです。
村上さんがそういう日本画の世界に早々と見切りをつけて、現代アートの世界に飛び込んだのは、まったく正しい選択でした。
新天地の現代アートの世界では、日本画の世界で痛い思いをした経験を逆バネにして、きっちり結果を出したのは、皆様ご存知の通りです。
これはマジスゲェ事だと僕は思います。
まあとにかく、作家には自分の価値を決める事は出来ない、作家の価値を決める人は作家には手の届かない雲の上にいる、という、身も蓋もない絶対原理がアートの世界には今も昔も存在しているのが現実なのであります。
話をここで終わりにしてもいいのですが、仏教徒の僕は蛇足と知りながら、ここまでの「文脈」の末尾に「無常」の味わいを添えたいところです。
僕が院展に初入選したのは二十三、四の頃でしたから、もう30年近く前の事です。その時分の院展の「作家の価値を決める」絶対的権威は揺るぎなく、駆け出しの僕はそれが永遠に続くと思っていました。
その院展、その他の公募展の権威が次々と失墜して、名だたる日本画家の作品が「売れなくなる」とは、誰も想像しなかった事です。想像しなかった事が僅か30年で起きています。
僕はどうしても「無常」を感じてしまいます。
今「世界のアートの価値を決める絶対的権威を持つ」人々も、その権威が永遠に続くことはありません。
この世界は「無常」ですから。
⭐️⭐️⭐️
では、今日はこの辺で。
最後までお読み下さり、ありがとうございます😊
Episode32~END~
To be continued
※この稿続きます。
Episode33〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い④
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/17/082906
Episode31〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い②
ハルです。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/13/024052
前回のEpisode30👆では、アートの世界でよく言われている「文脈」について書きました。
今回はその続きを書いてみます。
僕はアートと同じくらいに文学に傾倒しています。
文学作品は(当然のことながら)「文脈」によって成り立っていますね。
僕は、30代の頃、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み、人生観が根底から変わる衝撃を覚えました。
ドストエフスキー文学が書かれた帝政末期のロシアは、キリスト教会の権威が揺らぎ、無神論者が跋扈を始めた時代でした。
そんな時代、ドストエフスキーが訴えようとしたことは「人間は信仰から離れて、人間らしく生きることは出来ない」という、ごくシンプルなことです。
優れた「文脈」は、読む前と、読んだ後とでは、明らかに自分の意識が変わっています。
僕が宗教に心を惹かれるきっかけのひとつとなったのは、ドストエフスキー文学を読んだことです。
「文脈」の力とは、そういうものではないかと思うのです。
ドストエフスキー、いや欧米文学の根底には、キリスト教思想が濃密に流れています。文学だけでなく、絵画、音楽、哲学、政治思想、… 欧米文化全体は、キリスト教という「大きな文脈」の上に乗っています。
恩師の平山郁夫先生が、繰り返し、私たち教え子に伝えようとしたのは、日本文化全体は、仏教という「大きな文脈」の上に乗っているという事でした。
これは本当にその通りだと、今でも確信しています。
ある時代まではーー「近代」という時代が始まる前までは、あらゆる文化的営みがーー西洋ならばキリスト教の上に、東洋ならば仏教の上に乗っていました。
古典として残っている作品は、そのほとんどが西洋ならばキリスト教絵画、東洋ならば仏教絵画であることが、その証拠と言えるでしょう。
宗教絵画は、「人間の誰かに見せる」という前に、「神(あるいは仏)に見せる」という意識で描かれているように思えます。現代の絵描きとは根本から意識が違うようです。「誰かを感動させたい」という意識すら無かったのではないかと思うのです。
けれど、その作品が、時代を超えて、私たちの心に訴える、力強い何かを持っています。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/101924
👆Episode24で「イスラム教徒には心を病む人、自殺する人がほとんど居ない」ということを書きました。
僕はいま明らかに心を病んでいますが、何故か「死にたい」とは思いません。「今は苦しいけれど、いつか乗り越える筈だ」と、どこかかで思っています。たぶん、これが信仰を持つ者の強みなんです。
現代の日本では年間3万人近く自殺で命を落とし、心の病で通院している人は300万人以上居るといいます。(こうして具体的数字を出すと、物凄いことだと、あらためて思います)。僕は、いまの日本で気が狂わないとしたら、むしろ、そちらの方がおかしいのではないか、とすら思っています。
現代人の生活から宗教が切り離され、同時に、芸術作品は宗教という「大きな文脈」から切り離されてしまいました。
芸術作品が必ず宗教と結びついていなければならない、と言うつもりはありません。
個人の楽しみの為であっていいし、現代アートのような知能ゲームであってもいいのです。
けれども「文脈」とやかましく言うわりには、宗教・信仰という「大きな文脈」からは、いまのアートは外れてしまっているように、僕には思えてならないのです。
冒頭の画像は『私家版・十一面観音』
上の画像は『FUGEN』(普賢)という作品です。
僕にとっての、宗教絵画とは何か、という模索から生まれた作品です。
「大きな文脈」の末尾に連なる作品、という意図で制作しました。
⭐️
では、また。
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode31~END~
To be continued
※この稿Episode32に続きます。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/15/225216
Episode30〜僕はアートの世界の「文脈」が嫌い①
ハルです。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/212759
Episode26👆で書いた最悪の状態は脱したようですが、まだメンタリティの波があり、今日は朝から調子が良くなかったです。
それでも、冒頭くらいの絵を描いているんだから、俺って偉いなぁ。(と自分褒めしておこう)
メンタルが下がったきっかけは分かっています。(それは後述)。今日は女房が朝から東京に出張で、夕方、高速バスのバス停まで迎えに行きました。車の中で女房が「今日調子はどうだった?」と聞くので「悪かった」と素直に答えました。
今までだと「大丈夫だったよ」と答えるところですが、調子が悪いときは「悪い」と答えるようにしました。「悪い」と答えたからといって女房に危害を加えるわけでないし、単なる体調の報告ですから。素直に「調子悪かったよ」と言った後は、いくらか気持ちが楽になりました。身体や心のサインは隠さない方がいいし、近しい人にはむしろ知ってもらった方がいいようですね。
僕はTwitterの本垢やFacebookでは、画家仲間や美術関係者と繋がっているんですが、ここ最近はそちらのタイムラインは意識して見ないことにしていました。
けれども、今「アートフェア東京」会期中でもあるし、会田誠さんが訴えられた件も(この業界では)ホットな話題でもあるし。
夜中に目が覚めた時にうっかりスマホを開いて、それらの件の記事を見て、一気にメンタルがダダ下がりになり、朝まで寝付けなかったのです。
たとえばメンタルを病んで会社を休職(または退社)した人は、自分がもと居た会社で「誰それが出世した、活躍している」という話を聞いたら気分良くならないでしょうね。そもそも会社を思い出したくもないでしょう。
僕は絵を描くことはやめませんし、アートそのものには一生関わっていきますが、いまの「アート業界」は好きじゃない、いや、はっきり言うと、嫌いです。
鬱病で会社をドロップアウトした人が二度と会社には行きたくなくなるのと同じように、(僕はアーティストをやめるわけではないので、完全に離れるわけにはいかないけれど)出来ればアート業界からは距離を置いていたい、というのが本音。
この感覚を、分かるように説明するためには、少々込み入った説明が必要だし、今どきの美術関係者さんに「アート業界が嫌いなんです」と言うのは物凄くメンドい。いちいち会社に行って、会社に生き甲斐を感じてバリバリ働いている人に「この会社嫌いなんだよね」と言うのと同じくらいにメンドい。相手だって絶対にいい気分しないに決まってる。
ここに来て、会田誠さんが訴えられるという件が話題になって、まあ会田誠さんの仕事はこれまでにも何度も「炎上」騒ぎになっていて、そのたびに僕は一応コメントしたりしていたけど、僕もその時は一応アート業界なる「大きな会社」に関わっていたこともあり、否が応でも関心を持たざるを得なかった、ということもあります。
けれども今は、本当に「辞めてしまった会社」の話題を聞くような気持ちしか沸き起こってこないのです。こんな感覚になってしまったことに本人が驚いているけれど、正直、そのようにしか感じられない。
いつの頃よりか「アートでは文脈が大事だ」と言われるようになって、…いや…いま、“いつの頃よりか”と空っ惚けて書いてしまったが、村上隆さんが「文脈」ということをやかましく言い出したんだけれど、「アートは文脈、背景の歴史が大事なんだ!」という言い方が流布されるようになってから、僕はアートの世界に、なんか、薄ら寒いものを感じ始めるようになりました。
「村上隆の作品なんてタダのアニメオタクの絵じゃないか」
とか
「会田誠の作品なんてタダのエログロじゃないか」
という批判をする者は、その作品が成り立つに至る文脈、文化的背景を見ていないのである!
会田作品を見て不快を感じたなら、「何故不快を感じたのか」を学問的探求心で掘り下げて考えてみるべきなのである!!会田作品をそこらのエログロと同列にみなす時点で、訴えた女性はアートの何たるかをまるで分かっていないのである!!!
…うう、こう書いてきて、なんか気分悪くなってきちゃった。マジで吐きそう。👆のような理屈をブチあげる奴に実際に出会ったら、俺、本当に吐いてしまうかも知れん。
⭐️
実際のところ、村上隆さんも会田誠さんも海外で高く評価されているし、それは作品そのものよりも「作品が成り立つに至る文脈」が評価されているからに他なりません。
「絵が上手い」だけじゃアートの世界では評価されないんです。作品の向こう側にある「文化的背景」まで感じさせるものでなければならないんですね。
僕は院展という、岡倉天心が創設した日本画の公募団体に20年出品し続けていました。
え?…岡倉天心、知らない?
…いや、それは検索でもして調べてみてくださいね。(^^;)
簡単に紹介すると、
歴史の教科書にも載ってる偉人で、たんに院展を興した「近代日本画の創始者」にとどまらず、西洋思想に対抗しうる「大いなる東洋思想」を勃興しようとした思想家でもあります。
若き岡倉天心の時代には、日本に、西洋文化が奔流のようになだれ込んできました。
政治体制から庶民文化に至るまで、すべてが西洋流に大転換する時期で、美術の世界でも「古臭い日本画などもう終わりだ。これからは西洋画の時代だ」などと言われていたものです。
それに抵抗したのが岡倉天心でした。
彼の理屈は概ね、こうです。
「西洋画には、その芸術表現が生まれるまでの必然的な歴史背景がある。言わば根っこがあるのだ。西洋に生まれ育った西洋人が西洋画を描くなら根っこがあるが、遠く離れた日本に住む日本人が、表面だけ西洋画を真似て描いても根っこがない。日本人ならば、東洋に脈々と流れる文化の歴史を知り、その土台の上に立った芸術表現をすべきである。」
偉いものですね。🤗
岡倉天心は百年以上前に、芸術作品はその作品が成り立つに至るまでの歴史背景(文脈)が大事だ、ということを、既に言っているんですね。
これは本当にその通りだと思います。
僕は、岡倉天心の血脈を正統に受け継いでいる平山郁夫先生の薫陶を受けたので、この考え方が身に染み込んでいます。
平山郁夫先生は、「仏教伝来」「シルクロードシリーズ」で、日本の諸文化が、長い歴史の中でどのように伝えられ、どのように結実したのか、我々が寄って立つ文化の来歴を絵画で表現したのですね。(👇の画像は平山先生の代表作『仏教伝来』です。)
平山作品の価値は(勿論作品そのものにもありますが)やはり「作品の背後にある歴史背景」にあります。
平山先生ご自身もよくこう言っていたものです。「歴史が感じられない物には絵心が湧かない」と。
物事の表面ではなく「その背後にあるもの」に、常に注目していたのですね。
もうこのブログで何度も書きましたが、僕は恵林寺というお寺とご縁があります。
現住職の古川周賢老師に、今年の正月、おおむね、次のようなとても興味深いお話を伺いました。
お寺に奉納する仏画、襖絵、天井画は、本来、そこに住み修行する僧の、修行の支えになるべきものだ。だから昔の絵師は寺に住み込み、僧と同じ生活をし、仏教知識を身に染み込ませた上で、寺の中で作品を描いている。しかし現代のお寺に奉納される作品は、寺とは離れたアトリエで、画家の独りよがりの感覚によって、描かれている。
古川老師によると、加山又造画伯の天龍寺天井画龍図や、千住博画伯の聚光院伊東別院襖絵なども、本来、お寺に奉納される天井画、襖絵の文脈から外れているそうです。それらは「アート作品」なのかも知れないが、「修行の支えとなるべき作品」からは外れている。昔は当たり前のように絵師が寺に住み込み、寺で制作することがあったけれど、それがなくなり、「アート作品として『鑑賞』されるものではあるけれど、仏法修行の『支え』になるものからは外れている」というチグハグなことが起こるようになってしまった。
僕は古川老師の見識はその通りだと思います。
早い話、お坊さんの袈裟を、一流のファッションデザイナーにデザインさせれば、優れた「アート作品」になるかも知れない。でも修行をする僧の衣として適切なのかどうか、という事なのです。
村上隆さんの五百羅漢図などは、アート作品の文脈には乗っていますが、仏教の文脈には乗っていないのですね。
現役の老師が言ってるのだから、これは間違いありません。
さて、ここまで書いてくると、薄々分かっていただけると思うんですが、いまアートの世界でやかましく言われている「文脈」って、とどのつまり、西洋人の作り上げた文脈なのです。
村上作品も会田作品もそこに見事にはまっています。だから、アートの世界では本当に高く評価されています。僕もアートの世界の「社員」だった頃はそう思っていました。今でも批判するつもりはありません。
評価するつもりもないけれど。
要するにまったく興味を失ったのです。これはもう仕方がない。
いまの僕にとって、アートの世界は遠い世界のように感じられるし、いまいちばん何に心惹かれるかというと、仏教、というか宗教ぜんたいですね。
仏教の「文脈」には興味があるけれど、アートの世界の「文脈」には興味が沸いてこない。これが、偽らざる気持ちです。
海外ではめっちゃ高く評価されているのに、村上作品や会田作品は、日本ではイマイチ評判が良くない、というか、バッシングすらされています。
個人的には「嫌いなら見なきゃいーじゃん。いちいちディスらなくてもいいのに」と思うけど、「村上作品や会田作品の価値を理解できない日本人はバカだ」と言う人を見ると(村上さんはご本人がちょくちょく「バカ」と言っているわけだけど)、「いや日本人に理解できないのは当たり前だよ。アートの世界で言う『文脈』って、西洋人のこしらえた『文脈』だもん」って思いますね。
その「文脈」は西洋人の血肉にはなっているけど、日本人の血肉にはなっていない。だから村上・会田作品を見て「はあ?」と感じてしまうのは無理からぬことなのです。いや、学問的に理解することは出来ますけどね。
Episode24でイスラム教について書きましたが、今や世界人口の3割がイスラムだし、イスラムが世界の趨勢の主導権を握ることだって、あり得ないことじゃない。
イスラム文化圏では、女性にオナニーやセックスの画像を見せたら、まず殺されてしまいます。そういう、西洋人とはまったく異なる文化的背景を持つ人々に、いまのアートの世界の「文脈」って通用するのかな、ということは、時々考えますね。
Episode24〜伝統宗教は心の病に効く!
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/101924
それでは、また。
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode30~END~
To be continued
追記
この稿は次回Episode31に続きます。
https://halnoyamanashi.hatenadiary.jp/entry/2019/03/14/221252
Episode29〜「良い子」はつらいよ
ども、
ハルです。
昨夜は「星空観察会」というお泊りイベントに息子と参加しました。この写真は宿泊施設の「八ヶ岳少年自然の家」の部屋から見た早朝の景色。
まるでPCのデスクトップ画像みたいな風景。
昨夜はあいにく雲が多く、星はよく見られませんでしたが、息子にとっては「お泊り」じたいが楽しい。
僕は家族旅行の思い出が、一度だけあります。
伊東温泉のハトヤホテルに家族で一泊して、「家でない場所」で寝る何とも言えないワクワク感は、今もよく覚えています。
息子は家族旅行が大好きですが、「何が一番楽しかった?」と聞くと、「ホテルに泊まったこと」と言います。
親は「それかよ!」と思うけど、まあ、子供はそんなものかも知れないな。それでもいいか。
身体の中にほんの少しでもワクワクした記憶が残っていると、それを足掛かりに「幸福な思い出」を積み上げることが出来ますね。
そいつを、出来るだけやっていこう。
調べれば、お金をかけずに泊まれる所はけっこうあるし。「八ヶ岳少年自然の家」とか公営の宿泊施設は激安だし。
毎朝恒例の、カウンセラーの井上秀人さんから届く音声音源。昨日は「良い子をやめる!」という内容でした。
毎度「ビシビシ自分の事が言い当てられている」と感じる内容です。
「良い子」というのは、「良い子でないと自分の居場所がない子」です。
苦役のように「良い子」でい続けることを強いられている子です。
親から離れても、自分で自分に、その苦役を課している。
「苦役を自分に課すのをやめようよ」と、井上さんは言っているのです。
⭐︎
今回も『テレホン人生相談』の音源リンクを貼りますね。
👇は「良い子を演じ続けて、とめどなく沸いてくる怒りをコントロール出来なくなった男性」の相談です。
https://m.youtube.com/watch?v=-k9eEtmCshU
相談者は40歳の独身男性。65歳の父、66歳の母と実家に同居しています。
第一声から感じるのは、感情を押し殺したような、独特な声色。
相談者の悩みは、…
日常の些細な出来事がきっかけで、自分でも戸惑うばかりの激しい怒りが沸いてくる、そのコントロールが出来ないでいる、という事。
話が進むにつれ、相談者は「抑圧する父への怒り」を、潜在的に抱えていることが分かってきます。
コントロール出来ない程の怒りを抱えながら、それを家族にも、誰にも、ぶつけた事が一度もない。
人と喧嘩したこともなく、感情をむき出しにすることもなく、自分の好きな事に打ち込むこともなく、自分の感情を抑え、他人の機嫌を損ねないように、ひたすら「良い子」の仮面を被り続けた人生。
気がついてみると、その仮面の下に、激しい怒りが渦巻いていた。
加藤諦三先生は「このままあと10年経つと、胸に溜め込んだ怒りの感情はもっと強くなり、もっとコントロール出来なくなりますよ」と言い、「自分の感情に素直になる時間を持つ為に(抑圧する)父と離れて暮らした方がいい」とアドバイスします。
この相談者が、この後どうなったのかは分かりません。
僕がこの音源を聴いて感じたのは、
「これは俺だ」
ということ。
そして、
「加藤智大と同じだ」
ということ。
ここで、あの「秋葉原事件」で死刑判決を下された死刑囚の名を出したとしても、意外に思う読者は少ないかも知れません。
事件の内容について、ここでは詳しく書きません。
僕が言いたいのは、
「本人にもコントロール出来ない怒り」は、家庭の中で、長い長い時間をかけて蓄積されてゆくものだ、という事。
その「怒りのエネルギーの大きさ」は、本人にも見えないだけに、気がついた時には、およそ致命量寸前にまで膨れ上がっているものだ、という事。
子供の体内に蓄積されている「怒りのエネルギー」を、親が一番あなどっている、という事。
⭐︎
決してあなどってはいけないけれど、「怒り」の正体に気づけば、そいつを「飼いならす」ことは可能な筈です。
飼いならす為に、まず、「飼育記録」をつける。
このブログは、僕の「感情」の飼育記録でもあります。
あなどってかかると、たちまち猛獣と化す「感情」の飼育記録をつぶさに書きとめ、そいつに首輪をつけ、リードをしっかり握りしめ、時には思い切り走り回らせる。
このブログは、僕が自分の「感情」を飼いならし、完全に制御下に置くことが出来るまで、続ける予定です。
それでは、今日はこの辺りで。
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode29~END~
To be continued
Episode28〜 67歳の母が41歳の娘に「私は子供の頃に貴女から支払われるべきものを未だ支払ってもらってない」と迫られる話
ども、
ハルです。
僕の散歩コースの土手には、👆こんな風に菜の花が茂り始めて、向こう側の藪からはウグイスの鳴き声が聞こえてきます。
…心が落ち着いてきます。
…うん、いい感じだ。
この感じを心のハードディスクに保存しておこう。
家に帰ってきて、仕事場に入って、座る。
ちょっと前までは「仕事がはかどらない」とすぐに「自分責め」をしていたけど、昨日と今日は…そうだなぁ、「まあ、全然はかどらないわけじゃないし、少しは進んでいるから、まあいいや」と思えている。
…これも、いい感じだ。
と、一応、こうして書いておいて、保存しておこう。
考え方の根本を変えてゆくには、いちいち、こういう手順を踏んでゆく。…
「自分責め」をすることは、意識して、排除して行くことにしよう。
で、「自分褒め」は、どうしようか?
なんかまだ、「こっぱずかしい」「アホらしい」という気持ちが湧いてくるんだよね。
散歩コースに、ほとんど人と会わない見通しの良い道がある。そこを歩いている時に、
「俺って良くやってる」
「俺って凄い」
「俺は俺のことが好きだ」
と、声に出して言ってみる。
うーん、無理無理無理。
なんかまだ違和感があるなぁ。。
そうだ、頭の中で、「10歳ぐらいの自分」を思い浮かべてみて、その子に語りかけるように、こう言ってみよう。
「お前、良くやってるよ!」
「お前、凄いな!」
「俺、お前が大好きだ!」
…ん?
これなら違和感なく言えるぞ。
よし、とりあえず、これで行ってみるか!
今朝、カウンセラーの井上さんから届いた音声音源の内容は「親への満たされない感情を特定する」でした。
散歩の道すがら聴きながら、「ふむふむ、これも大いに思い当たることあるなぁ〜」と。
「子供の頃、親からこうして欲しかったということを、してもらえなかった」
「親にこんなことをされて嫌だった、ということを嫌だと言えなかった」
こういう思いを、心の深い部分に抱えている人は、大人になって、親と似たことをする人に出会うと、その当時に感じた嫌な思いがよみがえってきて、過剰に感情が揺すぶられてしてしまう、ということがあります。
そして、
親から「支払ってもらえなかった慈しみ」を、大人になってから、別の誰かに無意識のうちに要求して、その要求が受け入れられないことで、常に不満を抱えてしまう、ということがあります。
…と、いま僕はこうして知ったふうに書いていますが、しばらく前までは、僕自身が常に正体の知れないイライラや不満を抱えていて、その原因が分からずにいました。
もう何度も書きましたが、毒親育ちは、自分の本当の感情を抑える術に長けています。
というより、もっと正確に言うと、自分で自分を騙して、
「僕、ぜんぜんイライラしてないもんね〜」
「僕、ぜんぜん不満じゃないもんね〜」
と思い込もうとするのです。
怖いですね〜〜。。。😓
自分で自分を騙すことが長く続くと、ほんの些細な事がきっかけで、抑えていた感情が一気に噴出して、壁をぶち抜いたり、けもののように叫びだしたりします。(我が身で証明済み)。
まあ、ある意味、ここで分かったのは良かったですよ〜。😅
僕の中の「もうひとりの僕(インナーチャイルド)」が、壁をぶち抜くほどの怒りと不満を抱えていたこと、けもののように泣き叫ぶほどの哀しみを抱えていたことが、ここに来て、やっと分かった。
そして、その原因が、何処にあったのか、ということも。
ありがとう!僕のインナーチャイルド!
それを、僕に教えてくれて!
さて、
ここからは、『テレホン人生相談』の神回(だと僕が思っている)の音源をご紹介します。
https://m.youtube.com/watch?v=d84Rj99G6as
相談者は67歳の女性です。
既に嫁いで家を出ている41歳の娘についての相談です。
その娘は、何か困ったことがあると、四六時中、電話やメールで母親に愚痴、泣き言を言ってくるのだそうです。
朝8時から夜11時まで、1日に4〜5回、同じことを何度もクドクド繰り返す。孫の世話もあり、嫁ぎ先に出向くこともよくあるそうですが、あまりの電話やメールの多さに、まるで駄々っ子の甘えのようだと、困り果てているとの事。
娘のあまりのしつこさに、母が引いたそぶりをみせようものなら、たちまち、母を激しく攻撃してくるのだそうです。
「お母さんは私の気持ちを分かってくれなかった」
「お母さんは私をかわいがってくれなかった」
「お母さんはイライラしながら私を育てた」
「お母さんは私を虐待した」
そう娘に責められると、思い当たる節がある母は、たしかに、仕事が忙しく、夫とも不仲で、そのイライラを、子供にぶつけてしまったと、素直に認めています。
その一方で、母はこうも言います。
「子供の幸せが私の幸せなんです」と。
しかし、この常套句の「親の私はこんなに子を想っているんですよアピール」をして、オチをつけようとする、毒親特有の邪心を見抜いた加藤諦三先生は、すかさず、
「自分で幸せを作れない親は『子供の幸せが自分の幸せ』と言うものなんですよ」
というキラーワードを、この母親にぶつけます。母親はこれ以降声色がはっきり変わってきます。
加藤先生の言葉に動揺した母親に、大迫美恵子先生が「大迫節」で落としにかかる。
「娘さんは母親の貴女に、子供のころ支払ってもらえなかったものを、支払ってくれ、と要求しているんじゃないですか?」
「娘さんは、子供のころ、貴女に全身で甘えることが出来なかったんじゃないですか?」
「娘さんは、いま自分の人生が上手くいっていないことの原因が、自分の幼少期にあったということに(無意識のうちに)気がついたんじゃないですか?」
「娘さんにここまで迫られているのに、貴女はまだ逃げるんですか?」
……
加藤&大迫の二段攻撃に、この母親はさすがに目が覚め、気がついたようです。
いま自分が受けている苦しみは、子供だった娘に、当然支払うべき慈しみをじゅうぶんに支払ってこなかったことが原因なのだと。
10歳になる息子は、毎日何回も僕に「ぎゅーして」と要求してきます。毎晩じゃないけど、なんとなく不安な夜は「いっしょに寝て」も言ってきます。
小4だし、「ちょっと甘えすぎかな」とも思うけれど、要求される限りは、ぎゅーするし、いっしょに寝てやろう、と思っています。
⭐︎
それじゃ❗️今日はこの辺で❗️
最後まで読んでいただき、ありがとうございます😊
Episode28~END~
To be continued
Episode27〜セルフイメージアップのトレーニングって?
ども、
ハルです。
昨日から、一時中断していた散歩を再開することにしました。
散歩コースは決まっていて、近くの笛吹川沿いの土手を下流に向かって進み、橋を渡って、反対側の土手👆を歩いて、帰ってきます。所要時間は約1時間半。これで大体1万歩。昔から足腰が強い方なので、これくらい平気です。
僕は、気持ちが鬱に向かうと、外を歩くようにしています。ただし、人にあまり出会わないコースを選びます。
職業柄、通常生活が「引きこもり」なので、「家に引きこもって寝る」ことは、普通の人が「職場に出勤して寝る」のと同じようなもので、ぜんぜん気が休まらないのです。
散歩は、毎日、小さな発見があります。
鶯が鳴きはじめた
とか
土手に、青々と菜の花の葉が茂り始めた
とか
そういう変化に気持ちを向けると、「負の感情の連鎖」は一時中断します。
ほとんど人が通らない土手道をてくてく歩くだけなので、人と会うストレスも避けられます。
でも、ひとつだけデメリットが…
花粉症の身には、この時期、外を1時間半歩くのは、…(笑)
まあ「メンタルの健康」の為に、「花粉症地獄」は耐えて、しばらく散歩は続けます。
⭐️
前回の記事で、僕が壁をぶち抜いた狼藉に恐れをなした妻と息子の、その後の様子を書くのを忘れていました。
以前から、妻には僕の精神状態は詳しく説明してありますが、息子には「お父ちゃんはこれこれの病気で、イライラすることがあるかもだけど、お前に怒ってるんじゃないし、お前が悪いんじゃないよ」と説明して、「ごめんね」と謝りました。
その夜は「お父ちゃんと寝たい」というので、久しぶりの添い寝。
今は、僕のメンタルはかなり落ち着いて、僕が落ち着くと、妻も息子も安心します。
だからこそ、
僕が抱える心の問題は、家族の為にも、乗り越えなきゃいけないなって、あらためて思います。
さて、
親離カウンセラーの井上秀人さんから、毎朝、音声音源がメールで届けられています。
内容は、脱毒親に役立つ約5分ほどのミニ講義です。
散歩しながら聴くのにちょうどいい内容です。
今朝のミニ講義は「セルフイメージアップ」についてでした。
セルフイメージ、つまり自己肯定感を高める為にどんな訓練をしたらいいか? という入門的な解説でしたが、これはピンと来るものがありました。
毒親育ちの人は、例外なく、自己肯定感がとてつもなく低いのです。
いまさら説明するまでもないですが、四六時中「自分責め」ばかりして、「自分褒め」をまったくしないで、ここまで来たんですから、自己肯定感が高まるわけがないんですよ。
でも、
セルフイメージアップトレーニング
って、何だろう?
おぼろげに、最近のスポーツ選手がよく取り入れてるって話を、小耳に挟んだような気がするけど、具体的にどんなものなんだろう?
早い話、「俺は出来る!」という強い自己肯定感を常に保ち続ける訓練らしいけど、そんな気持ち、手に入るんなら、是非、手に入れたいですよね!
毒親育ちは、そういうメンタルが喉から手が出るほど欲しい!
⭐️⭐️
サッカー、テニス、フィギュアスケート、卓球、水泳、…と、世界の舞台で活躍する、10代、20代の若い日本人プレイヤーの戦いぶりを見ていると、身体能力の高さは勿論だけれど、それプラス「メンタルが強いなぁ」と感じますよね。
ひと昔前の日本人プレイヤーとは人種が違うんじゃないかと思うくらい、伸び伸びと競技そのものを楽しみ、率直に喜びを表現して、ミスしてもぜんぜんクヨクヨしない。
それは、先天的な性格というより、そういう訓練をして身につけたメンタルのように見えるのです。
本田圭佑さんの次の言葉には、彼のメンタルは、元々、僕たち一般人とたいして変わりはない事が伺えます。
俺ってすごくポジティブな性格なんだけど、
裏を返せば、実はすごく不安な性格なんです。
不安だから努力しようと思う。
簡単に言えば強がっているんですよ。
どうやったら、彼みたいなポジティブシンキングを身につけることが出来るんでしょうか?
僕みたいな、長い年月をかけて、ネガティブシンキングを身に染み込ませたような人間は、まず、セルフイメージアップの第一歩が分かりません。
⭐️⭐️⭐️
井上さんの解説によると、セルフイメージアップの第一歩は、「自分との約束を守る」ことだそうです。
ん?
…これだけだと、ちょっと意味がわかりませんよね。
毒親育ち、アダルトチルドレンの人は「他人との約束を守る」意識はメチャクチャ高いのです。
時には自分の都合を後回しにしてでも、他人との約束を守ろうとします。
これは「責任感の強い人だ」と、評価されがちだし、自分もそう思い込んでしまうので、この性格が固定化してしまいます。
けれど、ここが怖い落とし穴なのです。
「自分の都合を後回しにしてでも、他人との約束を守る」を続けると、「自分などどうでもいい」という意識が強く刷り込まれてしまいます。
それはやがて「自分を大切にしない」「自分を愛せない」という意識になり、心の深い場所で固定化してしまいます。
これは、次のように考えれば分かるでしょう。
大好きな恋人が出来たとします。
その恋人との約束は、何をさて置いても守ろうとするでしょう?
デートの約束をする。
プレゼントの約束をする。
etc.
その人を愛していれば、その約束は断じて守ろうとします。
デートの約束をすっぽかしたり、プレゼントの約束をすっぽかしておきながら、「それでも君のことを愛しているんだ!」といくら言ったとしても「そんなの嘘よ!」とフラれるに決まってます。(笑)
その人との約束を守らなければ、その人を愛していることにはなりません。
だから、
自分を愛するためには、
つまり、自己肯定感を高めるためには、
自分との約束を守る、
ということが、初歩の初歩の第一歩なんです。
具体的に言えば、こういうことです。
「最近仕事を頑張ったなぁ。次の休日はしっかり休もう」
と決めたら、その「自分との約束」は断じて守る。恋人をねぎらうように、自分をねぎらう約束は必ず守ってあげる。
「自分はこういうことがしたい」
と決めたら、他人(または集団圧力というやつに)「自分のしたいことなど後回しだ!これやれよ!」と命令されても、自分したいことを優先する。
…そういうことなんです。
⭐️⭐️⭐️⭐️
その前提としては、「自分はいま何を求めているのか」を、よくよく考えてみなければならないんですよね。
「自分がいま何を求めているのか」がよくわからない場合は?
恋人が出来た時のことを考えてみればいいんです。
恋人の「好み」「希望」「何がしたいか」等々は、必死になってリサーチしますよね。
それと同じこと。
自分に関心を持って、自分の「好み」「希望」「何がしたいか」を、恋人をリサーチするのと同じようにリサーチすれば、おのずと分かってくるでしょう。
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️
ネットには「セルフイメージアップ」についての記事がかなり上がっているので、検索すればテクニカルな知識はそこそこ知ることが出来ます。
でも大元の、セルフ=自分自身に関心を持つ。そして、その自分自身との約束を守る、という第一歩から説いている記事はほとんどありません。
セルフ=自分自身を、まずよく知らなければ、何をアップしていいのか分かりませんよね。当然のことながら。
その肝心の部分は、ネット記事をどれだけ読んでもよく分からないのです。
「自分自身を知る」
とは、ほとんど哲学的・宗教的探求でもあるので、これを一人でやってゆくのは大変です。
だから、現代の世の中には、カウンセリングが必要なのだけれど。
じゃ、今日はこの辺で❗️
最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
Episode27~END~
To be continued